現在自筆本14巻が現存しているが、もちろん国宝となっている。
一方の道長のライバル・藤原実資は約半世紀に渡って書いた全61巻の膨大な日記「小右記」を残した。
道長と実資が書いた「御堂関白記」と「小右記」を詳しく見ていこう。
平安時代、日記をきちんと書くのは貴族のたしなみであった。
道長の祖父藤原師輔が日々の心得を子孫に書き残した「九条殿遺誡」に、こんな一節がある。
「朝起きたらまず暦を見て、その日の吉凶を知る。洗面後は昨日のことを記す。書くことが多いときは日中に回してもいい」
日本人が日記を書くようになったのは、これより約百年前の九世紀の終わり頃だとされている。
もちろん庶民は文字を書けないから、日記を記したのは貴族たちであった。
藤原道長は、内覧となって権力を握った995年長徳元年から日記を書き始めている。
現代では、通常、日記は自分のために書くものであって、特殊な例を除いて公開することはあまりない。
しかし平安貴族の日記は、公開することを前提に書かれてお り、貴族どうしで売り買いされるほど、価値の高いものでもあった。
礼儀作法やしきたり、有職故実などが詳細に書かれていたため、朝廷の行事を行うには欠かせなかったのである。
「土佐日記」や「更級日記」のような日記文学は別として、貴族の日記は暦本に書かれた。
曆本というのは、陰陽寮という役所にいる暦博士学者が作成し、日の善し 悪しや吉凶を判断するための情報が具に記されている。
そのため、これを具注暦と呼び、一年間で二巻セット 、半年に一巻となっていた。
一方の藤原実資が書いた「小右記」は小野宮流の右大臣の日記という意味で、全61巻もある。
「小右記」は、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度などの有職故実について詳しく、全文が漢文で書かれている。
道長の日記は「御堂関白記」と呼ばたが、これは江戸時代になって広く流布 した名称である。
道長が自分の日記に名前をつけたわけではないし、第一道長は生涯を通じて関白にはなっていない。
そのため定着するまでは、さまざまな名称で呼ばれてきた。
ちなみに「御堂関白記」の「御堂」とは、自身の建てた法成寺に住んで御堂殿と呼 ばれたことに由来する。
道長は、朝廷のトップに立った30歳から25年以上も日記を書き続けた。
当初は記述もまばらだったが、完全に権力を握った寛弘年間に入ってくると詳細な出来事を書き残している。
「御堂関白記」は道長が自分で書いた世界最古の自筆日記だが、文字にはその人の性格が表れると言われる。
文字から道長の性格を判断すると、彼は闊達で陽性な気質の持 ち主だったようである。
その反面、ずいぶん気まぐれなヤンチャでもあったろうと思われる。
歴史学者の倉本一宏氏は、道長の日記から彼の性格を次のように分析している。
「とても感激屋でよく泣き、素直な性格で、自分の行為に対して素直に自賛したり、またその場の雰囲気に合わせ て冗談を言ったりすることが多い。」
「たいそう怒りっぽい人である一方で、非常に気弱な人でもあった。」
「側近の行成に弱音を吐 いたり、自身の日記に愚痴を記したりすることもしばしば」だという。
一方、日本史学者の山中裕氏は、日記には誤字・脱字が多く、少々荒っぽい書き方も少なくないとする。
道長が、おおざっぱな性格だったことがわかるという。
ところで道長が詠んだと言われる有名な「望月の歌」は、「御堂関白記」には書かれていない。
書き残しているのは道長のライバル藤原実資で、「小右記」に記述されている。
道長はこの歌で悪名を高めたが、それは実資が日記に記録して後世に広めたからである。
「御堂関白記」は、995年から1021年まで書かれたとされ、 998年以降が残っている。
それに対して「小右記」は、982年から1032年までの半世紀の長期にわたる記事が網羅されている。
ともあれ、平安時代の詳細な事件などを現在の我々が知ることが出来るのは、道長と実資が「御堂関白記」と「小右記」を残してくれたからである。
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