一条天皇は、兄弟の不始末で出家して宮中を去ろうとする中宮定子を、引き留め、自分の胸元にそっと抱き寄せた。


一条天皇と定子のその後を、詳しく見ていこう。


定子の父親は容姿端麗で知られた関白藤原道隆である。


また定子の母・高階貴子は円融天皇に仕えた女性でありながら、漢字を見事に書きあげた。


そのため貴子は、女官の最高の位である内侍に任命され、高階の高をとって高内侍と呼ばれたとされている。


貴子は定子の子供時代にも、漢文などを教えて教養ある女性に育て上げたに違いない。


その結果、定子は優れた教養を身につけながらやさしく美しくしい女性に育った。


989年永祚元年10月、成人の儀式である着裳が行なわれ、定子は翌年、14歳でいとこの一条天皇のもとに入内している。


定子が入内した時、一条天皇はまだ11歳の子供で、定子より3歳年下であった。


もちろん一条天皇にとっては、定子がはじめて出会った女性であり、初恋の人であった。


11歳の天皇は、その後もはじめて出会った1人の女性を想い続け、後宮には定子以外は入れなかったという。


中宮となった定子は両親のすすめもあり、清少納言をはじめお洒落な会話ができる知的な女房たちを集めた。


そして文学好きの一条天皇を楽しませるために、定子は流行の最先端をゆくサロンを宮中に作り上げた。


宮廷に明るく華やかな空気を持ち込んだ3つ年上の姉のような定子に、一条天皇は夢中になる。


しかしこの時代は、天皇はひとりの女性を愛しすぎてはいけないというのが常識となっていた。


権力が妃の実家に、集中してしまうからである。


そのため後宮には身分の高い女性を中心に、多くの女性たちをバランスよく入内させることがよいとされていた。


そして帝は、たくさんの子孫を残すことが、天皇家の存続につながると考えられていた。


それでも、一条天皇は定子をあまりに愛顧しすぎたために、ほかの女性を近付けようとはしなかった。



そのため公卿たちは娘を入内させる機会を失い、その反感は定子と、定子の実家の中関白家に向けられた。


そして天皇の母である東三条院詮子も、いつも一緒にいる天皇と定子を複雑な思いで眺めていた。


995年長徳元年、関白道隆が急死すると、その反動が一挙に中関白家に押し寄せることになる。


東三条院は、定子の母・貴子の実家の高階家が台頭することを警戒して、天皇には後継者に道長を推薦した。


しかし愛する定子のために、天皇は定子の兄・藤原伊周を内覧にしようとする。


東三条院は一条天皇の寝所にまで押し掛けて、天皇を夜通し説得して道長を内覧としている。


996年長徳2年正月、定子の兄伊周と弟隆家が、先帝・花山院に不敬をはたらき流罪に決定する。


ところが伊周は中宮定子のもとに逃れて、配流先には行こうとしなかった。


中宮としての責任を感じた定子は、その場で自ら髪の毛を切って出家しようとした。


しかしそんな定子を一条天皇は引き留め、抱き抱えるようにして宮中へ連れ戻すのである。

周囲の反対を押しきって、深く愛し合った二人は、やがて定子が懐妊して脩子内親王を出産する。


しかし当時は天皇の子供であっても、その子を養育するのは妃の実家の役目であった。


続いて一条天皇の子を懐妊した定子だが、実家が没落した彼女にとっては、子供を出産し養育するには厳しいものがあった。


そんな定子の姿を見た公卿たちは、チャンス到来とばかりに、次々と我が娘たちを一条天皇のもとに入内させている。


道長も長女の彰子が12歳になると、入内させる準備を整えた。


999年長保元年11月7日、定子は一条天皇の待望の第一皇子である敦康親王を出産する。


ところが皮肉なことに、この日は道長の娘彰子が女御となる日であったため、定子のもとに訪れる公卿はほとんどなかった。


さらに道長は、兄道隆の強引な手法に習い、彰子を中宮とするために定子を皇后とし、前代未聞の一帝二后を出現させている。


もはや時の趨勢はすべて道長に向かい、表だって反対するものは誰もいなかった。


しかし、このような状況になっても、一条天皇の定子への愛は変わらなかった。


天皇は定子が不遇の身となればなるほど、定子をいたわり愛した。


そのため一条天皇の愛が定子にすべてそそがれていたことだけが、彼女にとっての生きがいであった。


1001年長保2年の師走、定子は第二皇女の媄子内親王を産んだものの後産がなく、しだいに衰弱する。


一条天皇も気遣ったが、人生の栄枯盛衰を短い人生の間に見尽くした24歳の定子はその生涯を閉じた。



多くの者たちがすでに定子のもとを去っていたが、清少納言は最期まで定子に付き従った。


そして清少納言は遺言によって定子の亡骸が、暗く寂しい南鳥部野に土葬されるともをした。


当時の葬送は夜に行われたが、雪の降りしきる凍えるような冬の夜道を、清少納言たちは泣きながら歩いた。


そのためか、彼女は冬の夜を嫌って、「枕草子」には「冬はつとめて」がよいとしている。


「つとめて」とは早朝のことで、冬は早朝が良いと清少納言は記述している。


人間にとっての季節は、「春はあけぼの」だけではなく、寒くつらいが、体が引き締まる冬の早朝もいいものだと彼女は強調しているのである。


これはまるで清少納言が、定子との宮中生活がいずれ終焉を迎え、厳しい冬の時代が来ることを予感していたかのようである。