定子は藤原実資ら検非違使に、中宮の権威を踏みにじられると、清少納言の目の前で自らの髪の毛を切って出家しようとした。


清少納言と定子のその後を、詳しく見ていこう。


清少納言は28歳の頃に、18歳になった中宮定子の教育係の女房として宮中に上がった。


彼女の父清原元輔は有名な歌人だが家は貧しく、彼女は幼い頃から宮中生活に憧れていた。


彼女は16歳の頃に中級貴族である橘則光と結婚して、長男の則長を生んでいる。


993年正暦4年10月、和歌や漢文の才能が評価され清少納言は念願かなって宮中に出仕することが決まると、迷うことなく夫・子供と別れている。


少女の頃に、正月に紫宸殿の前で華やかな節会の行事を見て憧れた清少納言は、一人の男性とのつつましい暮らしだけに満足出来る女性ではなかった。


また彼女のあふれ出る才能が、それを許さなかったのかも知れない。


彼女が仕えた中宮定子は、美しく賢明で、性格も温和で、10歳も年上の清少納言を温かくいたわってくれた。


しかし宮廷生活を夢みていた清少納言であったが、さてその場に入ってみると目新しいことも多く、ためらうことのほうが多かった。


才気だけではどうにも処置のできない宮廷のしきたりがあって、さすがの清少納言も何度も恥ずかし思いをした。


当時の後宮には女官と呼ばれる女性が数百人いたといわれ、その暮らしぶりは複雑であり、人間関係も微妙であった。


そのため清少納言は数多くのいじめにあい、最初のうちは引きこもりになったり、出仕しても几帳の陰に隠れていることが多かった。


定子は、年若くしてこの宮廷生活を経験して、この複雑な人間関係に揉まれてきた。


それだけに定子は、涙が出るようなこまやかな心くばりを清少納言のために してくれた。


清少納言は、定子のやさしさに落涙しながら「この中宮さまのために、何があってもわたしは一生お仕えしよう」と心に誓った。


この時、清少納言はやさしく聡明で美しい定子に殉じるほどの畏敬の念と愛情をもったのである。


一条天皇はそんな心やさしい定子を愛し、足しげく定子の元に通った。


一方の清少納言は、宮中の数々の男たちと浮き名を流している。


機知に富んだ清少納言は、藤原伊周や藤原斉信から言い寄られ、つかの間の恋愛を楽しんでいる。


しかし彼女は男の好みも厳しく、去るものは決して追わなかった。


「枕草子」に彼女は、暑苦しそうでいやなものとして「色白きひとの、いたく肥えて、髪おほかる」と綴っている。


しかし定子のサロンを取り巻く楽しい夢のような世界も、あまり長くは続かなかった。


献身的に定子に仕えた清少納言は、やがて一条天皇を挟んで天皇の母・東三条院詮子と定子の仲が上手くいっていないことに気づくのである。


東三条院は、もしも定子が天皇の皇子を産めば、定子の母・貴子の実家の高階家が勢力を伸ばすことを恐れていた。


そのため東三条院は、関白道隆に続いて道兼が逝去すると、貴子の嫡男・伊周に対抗して自分の弟の道長を推している。


東三条院の懸命な説得で、後継者に道長が決定すると、伊周はヒステリックな行動を繰り返した。


そして遂に伊周と弟の隆家は、花山法皇に矢を射るという不敬を犯してしまう。


定子の兄弟とは言え、伊周と隆家が皇室に歯向かう態度を示したため、一条天皇は二人を大宰府と出雲への流罪に処している。


ところが伊周は定子の寝所にまで隠れたため、天皇は検非違使別当・藤原実資に命じて定子の周辺を捜索させた。


中宮としての権威を傷つけられた定子は、清少納言の目の前で発作的に自分の髪の毛を切って出家しようとした。


伊周は捕らえられて大宰府へ配流となり、定子の大事な後ろ楯である実家の中関白家は没落する。


それでも一条天皇は、周囲の反対を押し切って愛する定子を宮中へ呼び戻している。


清少納言は、このころから「枕草子」の執筆を開始したと言われている。


定子は997年長徳2年に、一条天皇の第一子である脩子内親王を出産する。


しかし後ろ楯をなくした定子を見て、公卿たちが競って一条天皇のもとに娘を入内させている。


藤原道長は定子が再び一条天皇の子を懐妊したという情報をつかんだ。


もしも定子が、一条天皇の第一皇子を産み、皇太子にでもなろうものなら道長一族は身の破滅である。


そのため道長は、倫子との長女でやっと12歳になった彰子を入内させる準備を急いですすめた。


999年長保元年11月1日、道長の長女彰子が、一条天皇の女御となるため、宮中に入った。


彰子に従った女房が40人、若い召し使いの童と雑役の下仕えがそれぞれ六人で、器量も人柄もえりすぐり の人ばかりを道長は揃えた。


そして道長は紫式部や赤染衛門、和泉式部といった優秀な女房たちを彰子のもとに揃えている。


道長は婚礼の調度品である絵屏風を製作するにあたり、貴族たちに一種の踏み絵を踏ませた。


絵屏風のために、公卿たちに和歌を詠ませたのである。


そのため才人の誉れ高い藤原公任や主な公卿をはじめ、花山法皇まで絵に合わせた和歌を詠んだ。


これにより敵味方を判別しようと道長はしたのだが、公卿で和歌を詠まなかったのは、藤原実資ただ一人であったという。


彰子が宮中に入った同じ日に、定子は臣下・平生昌の粗末な家で、一条天皇の第一皇子である敦康親王を生んでいる。


しかし多くの公卿たちは道長に気遣って、定子の元を訪れた公卿はたった数人であった。


道長は定子が一度出家した身であると主張して、中宮に定子がいるにも関わらず彰子を中宮にしている。


そのため前代未聞の一人の天皇に二人の皇后がいるという「一帝二后」という異常な状態となってしまう。


このような状態でも清少納言は、懸命に定子に仕え支え続けている。


定子は1001年長保2年にも媄子内親王を出産するが、後産が下りずに24歳で逝去している。


すべてを投げ出して定子を支え続けた清少納言の悲しみは、我々には推し量ることが出来ない。


清少納言は定子への忠誠を守って、中宮彰子の女房に、との話を蹴ってさっさと宮中を去るのである。


そのため胸がすくようにきっぷがいい清少納言は、現在でも人気が高い。


そして彼女が書いた「枕草子」には、落ちぶれた定子の姿が記述されていない。


そこには清少納言が、凋落した定子を守ろうとする心意気が感じられる。


そのため彼女が書いた「枕草子」は、紫式部の「源氏物語」とともにいつまでも読み継がれるのである。


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