紫式部は、父・藤原為時が久々に官職を得たため、越前国へ同行することになった。
紫式部の越前国での様子を、詳しく見ていこう。
藤原道長が内覧に就任すると、996年長徳2年の春に、大臣以外の官職を任命する除目が行われた。
そして長く官職がなかった紫式部の父為時が、淡路守に任命される。
しかし為時は久々に官職を得たにも関わらず、喜ぶどころか落胆の表情さえ浮かべた。
受領の任地国は、大、上、中、小の四段階に分かれ、淡路国は一番下のわずか二郡の小国であった。
ドラマでは父親に代わって、紫式部が書いたという設定だが、為時は一条天皇に不服を訴える次のような意味の漢文を送った。
官職がなくても冬の寒い夜に、血の涙を流すほどの苦学を重ねてきた。
そのため春の除目の朝は、いつもただ天を仰ぐばかりである。
この見事な漢詩を見て感嘆した一条天皇は、内覧の道長を呼んで相談した。
すると道長は、自分の乳母の子・源国盛に辞退させて、為時を越前守に推挙している。
越前は米どころの大国で、任命を受けた為時はじめ紫式部の一家は大いに喜んだ。
為時はかなり高齢のため、越前へは紫式部も同行することになり、準備を始めた。
ちょうどそのころ、藤原伊周と隆家が花山法皇に矢を射るという前代未聞の事件が勃発する。
そのため4月の末に伊周と隆家は、大宰府と出雲へ流罪となっている。
次の関白だと目されていた藤原伊周の凋落ぶりに、紫式部も驚き注目した。
そのためのちに彼女が書いた「源氏物語」の須磨の巻で、左遷された光源氏のモデルは、藤原伊周だと言われている。
この年の梅雨が開けた初夏のころに、為時と紫式部一行は、越前国を目指して京の都を出発している。
為時は出立前に、任地先の件で大変世話になった道長に挨拶に伺ったと思われる。
しかしこの頃にはまだ道長は、日記「御堂関白記」を書き始めていないため、記録には残っていない。
紫式部は生涯通じて大きな旅は、この時が最初で最後だが、この時詠んだ和歌が多く残されている。
紫式部一行は、粟田口から逢坂山を越え、近江国大津の打出の浜で一泊している。
翌日には舟で琵琶湖の西岸を北上して、現在の高島市あたりで宿泊している。
次の日も舟旅を続けた一行は、雷雨や夕立にあいながら塩津を目指した。
この時の夕立の経験は、「源氏物語」須磨の巻で、光源氏が海岸で急に暴風雨に遭遇する場面に生かされている。
琵琶湖の北端・塩津に到着した紫式部一行は、そこで一泊したのちに険しい山越えで敦賀へ向かった。
越前国の国府は武生で、新国守の為時たちは、夏に国司館に入っている。
ところで越前国では前年の8月に、70名あまりの宋人が若狭湾に漂着して難しい外交問題が発生していた。
そのため国守に為時が選ばれた背景には、漢文が得意な彼が適任者だと判断されたようである。
流れついた商船には朱仁聡や林庭幹が乗り組んでいたが、上申書や公文書が一条天皇に届けられていた。
平安時代のこの当時、菅原道真の意見で遣唐使は中止されていた。
そしてその後、唐が滅亡して宋が中国全土を統一している。
宋は発展して日本に交易を求めたが、日本の朝廷は消極的で、外交を結ばなかった。
その宋の商船が座礁して、都に近い若狭湾に漂着したため、宋人の取り扱いは難しい外交問題に発展した。
宮中では道長を中心に協議されたが、ひとまず宋人を越前国へ移すことに決定した。
そして宋人たちは松原客館という施設に、約8ヶ月間とどめおかれていたのである。
為時と紫式部は、越前国へ到着するなり松原客館へ向かい、宋人たちと面会している。
宋人のなかには事態が進展しないことに苛立って、勝手に京都へ行く者も現れた。
為時は漢詩を通じて、羌世昌という人物と友好を深めている。
もちろん漢文の得意な紫式部も為時を助けて、松原客館で宋人たちの世話をしたに違いない。
のちに彼女は「源氏物語」の桐壺の巻で、平安京に来朝した渤海使節団の様子を描いている。
越前国で冬を過ごし、その雪の多さに驚いた紫式部のもとには、何通もの恋文が都の藤原宣孝から送られてくる。
宣孝は「宋人を見に行くから」と文に書いてよこしたが、彼女は気にも止めていなかった。
ところがいつまでたっても、宣孝がやって来る気配はなかった。
そして「春には雪も解けるように、あなたの固く閉ざした心も解けるはずだ」という文だけが届いた。
越前のことなど何も知らないくせにと腹を立てた紫式部は「白山の雪はいつまでも解けない」という歌を返している。
20代なかばを越えた彼女は、最初は宣孝との結婚には全く乗り気ではなかった。
47歳の宣孝は、27歳の紫式部とは20歳も年上で、すでに妻も三人いて、さらに子供も多くいた。
そのため宣孝の長男の隆光は、すでに23歳になっていた。
ところが、手紙をやり取りするうちに不思議と彼女は次第に彼に引かれて行く。
そして紫式部は、越前で一年を過ごした後、単身宣孝の待つ都へ帰る決意をするのである。
紫式部は、藤原宣孝と文のやり取りをするうちに、次第に彼との結婚を真剣に考えるようになる。
そして彼女は結婚に踏み切るのだが、それはまた次の機会に譲ることにしよう。
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