藤原道長のライバルである藤原伊周は花山法皇に矢を射り流罪となると、妹の中宮定子は自ら髪の毛を切って出家した。


しかしその定子が一条天皇の子を懐妊していることを知った道長は、ある陰謀を巡らせた。


藤原道長の陰謀を、詳しく見ていこう。


藤原伊周と隆家の兄弟は、誤って花山法皇へ矢を射り、大宰府と出雲へ流罪となった。


しかし伊周たちは、中宮定子のもとに隠れたため、一条天皇はやむなく中宮の周辺の捜索を命じた。


定子は、中宮の地位を辱しめられたことから出家の道を選んだが、一条天皇は連れ戻している。


また伊周と隆家はそれぞれ病を理由に、播磨と但馬にとどまっている。


藤原道長は、定子が一条天皇の子を宿しているという情報をつかんだ。


この時道長の長女・彰子はまだ9歳で、入内させるには、まだ早すぎる年齢である。


もしもただ一人の后である定子が男子を出産すれば、すぐにその子が皇太子になってしまう。


定子が生んだ子が皇太子になれば、もちろん伊周たちは赦免となり、中関白家が復活する。


そうなれば道長が失脚することは、火を見るよりも明らかである。


そこで思い悩んだ道長は陰謀を巡らせて、出来るだけ多くの女性を一条天皇のもとに入内させることを思いつく。


そうすれば万が一、定子が男の子を生んでも、すぐに皇太子になることはない。


そこでまず道長は、右大臣で従兄の藤原顕光に話を持ちかけ、娘の元子を入内させるにことに成功する。


続いて道長は、叔母の藤原繁子に話を持っていき、娘の尊子を入内させている。


繁子は道長の父・兼家の異母兄妹だが、兄の道兼と関係して、尊子を生んでいる。


当時は叔母と甥が結婚することは、普通であった。


繁子は一条天皇の乳母でもあり、娘の尊子を入内させることには大賛成である。


道長は、大納言の藤原公季にも話を持ちかけ、娘の義子を入内させるにことに成功している。


后が多ければ、彰子が入内するまではまだ数年あるが、定子が男の子を産んだとしても、皇太子がすぐに決まることはない。


道長は、のちに彰子のライバルが増えることよりも、まず目の前のリスクを減らす道を選んだのである。


道長は、数々の幸運で最高権力者にまで登り詰めた男だと言われるが、まず目の前のリスク、眼前の敵を一人づつ減らすという方法でのしあがった。


それはともかく、都にいる高階貴子は重病となり、最期に一目我が息子・伊周に会いたいと言った。


それを聞いた伊周は配流先の播磨を抜け出し、京へ舞い戻ったため、今度は本当に大宰府へ流罪となっている。


そんな中、定子は997年長徳2年12月16日、一条天皇の第一子である女の子、脩子内親王を出産する。


道長は生まれたのが女の子であったためにひとまず胸を撫で下ろしたが、更なる陰謀を巡らせ実行する。


道長はやっと12歳になった我が娘の彰子を、女御として入内させる。


999年長保元年11月、定子は一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産する。


しかし翌年に道長は、定子が一度出家したことを理由に、すでに定子は中宮の資格を喪失していると主張する。


そして彰子を強引に中宮にして、前代未聞の一人の天皇に二人の皇后という「一帝二后」を道長は実現させる。


定子は1001年長保3年、第二皇女の媄子内親王を出産するが、後産が下りずに逝去する。


一方の彰子は、一条天皇の二皇子、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)を産む。


そのため定子の子・敦康親王が帝位につくことは永遠になかった。


道長は、一条天皇亡の後を継いだ三条天皇の時も、天皇の病を理由に退位を迫っている。


そのため三条天皇は、我が子敦明親王が皇太子になることを条件に、道長の勧めに従い道長の孫・後一条天皇に譲位している。


しかし道長は、我が孫の敦良親王を後一条天皇の皇太子にするため、一計を案じている。


道長は、皇太子の地位を示す壺切御剣を、あえて敦明親王には渡さなかった。


そのため敦明親王は、道長の度重なる圧迫に耐えかねて、日本史上はじめて皇太子の地位を放棄している。


三条天皇の死後、自ら皇太子を退いた敦明親王への返礼の意味も兼ねて、道長は娘寛子の婿に親王を迎えた。


しかし既に敦明親王の皇子をもうけていた妃延子とその父藤原顕光は激しい嘆きのうちに相次いで死去した。


そのため後に病に倒れた寛子の臨終の時には、延子と顕光二人の怨霊が寛子に取りついた。


そして怨霊に取りつかれた寛子は、道長をさんざん罵って死去したという。


藤原道長は、幸運に恵まれて最高権力者の地位を手にいれたとよく言われる。


しかし、彼の行動と数々の陰謀を見ていくと、とても偶然手に入れた地位ではないことが明白となる。


道長の時代から武士が登場するまでは、まだまだ時間があるが、彼は戦国武将に勝るとも劣らない計略や策謀を用いている。


また他人をおとしめるために呪いや呪詛を行うことは当時では犯罪であったが、頻繁に行われていた。



そのため当時の人々はよく病になると、呪詛などが原因だと考え、祈祷や読経を行った。


道長の姉・東三条院詮子も病となると、伊周や隆家を流罪にしたためだと考えた。


そのため特別な恩赦が行われ、伊周と隆家は都へ戻ってきている。


しかしすでに定子は亡くなり、定子の忘れ形見・敦康親王が皇太子になる芽は完全につまれていた。


つまり道長の打つ手が、もう少し遅かったり、なまやさしいものであれば、権力の座が伊周に奪われていた可能性は十分にあった。


道長は先の先を読んで、注意深く二重三重の策略を巡らせていたのである。


そしてこれらの陰謀が、一見平和な平安時代に当たり前のように行われていたことに驚かされる。


いつの時代にあっても、陰謀を巡らせるという人間の本質は、変わらないのかも知れない。


【藤原道長の陰謀】