紫式部は世界最古の長編「源氏物語」を書いたが、清少納言は世界最古といわれるエッセイ・随筆「枕草子」を執筆した。


しかし清少納言は女房として仕えた中宮定子の姿を見て、ある時そっと涙を流した。


清少納言は、なぜ涙を流したのかを詳しく見ていこう。


清少納言は紫式部と同じく、受領階級の下級貴族・清原元輔の娘として生まれた。


父の元輔は官位こそあまり高くはないが、三十六歌仙に数えられるほどの有名な歌人であった。


また清少納言は、父元輔が60歳を過ぎてから生まれた子供で、可愛がられて育てられた。


歌人として名高い元輔だったが、官吏としての昇進は遅く60歳を過ぎてから、はじめて受領として任地に赴いている。 


そのため幼いころから清少納言は元輔にしっかりと学問は教えられたが、家の経済状態は非常に貧しかった。


彼女がのちに執筆した「枕草子」には凄まじきもの、興冷めて期待はずれなものとして、官位のない下級貴族の家をあげている。 


また「清少納言の最期」の動画で詳しく触れたが、彼女の兄・清原致信は悪どい仕事に手を染め、その報復でのちに彼女の目の前で殺害されている。


清少納言が華やかな宮中の生活に憧れたのも、幼いころの貧しい生活への反動だったのである。 

清少納言は十六歳のとき、橘則光と結婚し、その翌年に長男則長が生 まれている。


彼女は母としての喜びから、しばらくは専業主婦として子育てに専念する。


しかしその喜びも長くは続かず、やがて酔いから醒めたように彼女は「わたしの生涯はこの子育てだけで終わってしまうのであろうか」 と思い悩む。


橘則光はやさしく武勇には優れていたが、文学的素養などは全く持ち合わせていない人物であった。


そのため夫婦の会話も噛み合わず、彼女をイライラさせて不機嫌にさせるのであった。


彼女を一専業主婦として家に閉じ込めおくには、彼女の才能はあまりに優れ過ぎていたのである。


やがて一条天皇の中宮定子の教育係を探す藤原道隆の目に止まった清少納言は、宮中にあがることになる。


清少納言は、念願の女房になるにあたり、きっぱりと夫・子供と別れることを決意している。


彼女にとっての宮中生活というのは、すべてを捨てても手に入れたいほどの、かけがえのないものだったのである。


清少納言ははじめて出仕して中宮定子を一目見た時に、これ程美しい女性がこの世にいるのかと感嘆している。


また定子の父・道隆も母の高階貴子も、教養のある容姿端麗な貴人で、文学好きの一条天皇も定子の元に通った。


定子は明るい性格で、道隆はいつも冗談好きの陽気な人物なので、定子のサロンはいつも笑いに溢れている。


清少納言はそんな宮中の夢のような生活の日々を「枕草子」に書き残した。


彼女は定子と貴族たちとの取り次ぎも担当したが、教養があり機知に富んだ彼女は男性貴族たちからもモテた。


そんな清少納言は定子の兄・藤原伊周から愛を告白されたこともあった。


そして苦労して育った清少納言は、目の前に現れる男性を、地位や官位を切り離しては考えられないようなったようだ。


地位や位階の高い人と付き合うことは、宮廷に奉仕するものにとって身の安泰を保証されたと同様である。


そのため清少納言は、男の資格はまず位である、とみて付き合っていたようである。


彼女は藤原伊周をはじめ、藤原行成や藤原斉信など官位が高く将来性のある男性ばかりと浮き名を流している。


藤原斉信などは元夫・橘則光の元上司であり、彼女と斉信の仲は則光公認であった。


高貴な男性を理想としたのは清少納言だけではなく、「もののあわれ」をテーマに「源氏物語」を書いた紫式部も同様であった。


紫式部が、時の最高権力者・藤原道長の妾であったことはほぼ間違いがない。


また紫式部と藤原宣孝の間に生まれた大弐三位は、のちに大宰府の長官で大金持ちの高階成章と結婚している。


紫式部も清少納言と同じく、父・為時の昇進が遅く、若い頃は苦労している。


そのため一人娘の大弐三位には、結婚するなら高貴で金持ちの男と結婚するよう、教育したのではないだろうか。


それはともかく、夢のような宮中生活を経験した清少納言であったが、道隆が逝去して中関白家が没落する。


定子にはまだ一条天皇の子がなく、兄の伊周は早く子を産めと毒ついた。


さらに兄の伊周と弟の隆家が、花山法皇へ矢を射るという不敬を犯し流罪となる。


その後定子はやっと一条の子を宿すが、実家を失くしたため出産のために貧しい臣下の家に移ることになる。


定子に付き添った清少納言は、牛車も入らないような狭い落ちぶれた門を見た時に、昔を思い出してふと涙を流したに違いない。


気の強い清少納言は、涙を流したことは「枕草子」には綴っていないが、凋落したそんな定子の姿にたびたび落涙していたと思われる。


一度は落飾した定子だが、一条天皇に呼び戻され、内親王に続いて一条の第一皇子・敦康親王を出産する。


しかし娘の実家が経済的支援をした当時は、後ろ楯を失くした定子の子供たちに、再び光が当たることはなかった。


定子は二人目の内親王を産んだ後、後産がおりずに24歳の若さで亡くなっている。


清少納言は宮中に都合8年ほど出仕したが、華やかな時代はほんの二年ほどであった。




清少納言は、定子への忠誠を貫き、中宮彰子の出仕要請を断って他の女房たちが残るのを尻目に宮中を去っている。


そして彼女は親子ほども年の離れた年上の藤原棟世と結婚して、小馬命婦と呼ばれる娘を生んでいる。


清少納言は棟世とともに任地へ赴いたりもしているが、やがて夫とは死に別れ都へ戻っている。


(彼女は)しばらくは兄の致信の世話になっていたが、兄は彼女の目の前で殺されるなど、凄惨な場面に遭遇している。


清少納言の晩年に、落魄したという伝説が多いのはそのためかもしれない。


彼女はその後もたびたび「枕草子」に加筆訂正して晩年を過ごしたと言われている。


清少納言にとっては、その後の人生が悲惨であればあるほど、「枕草子」に描かれた宮中生活が光輝いていたのかも知れない。