花山法皇は、片思いの姫の邸宅に通っているところを藤原隆家に突然矢を射かけられた。


法皇は驚いてその場を逃れたが、その後にこの事件は内裏を揺るがす大事件に発展する。


花山法皇のその後を詳しく見ていこう。


花山法皇は天皇時代に好色で有名であったが、女御となった藤原為光の娘で斉信の妹・忯子と出会うとひたすら彼女を慈しむ。


しかし自分の子供を身籠っていた忯子を病で突然なくしたため、天皇はふと藤原兼家に「出家したい」と漏らしてしまう。


すると兼家は息子の道兼と謀ってまだ在位二年目の花山天皇を出家させ、自分の孫・一条を即位させる。


花山天皇の側近としてやっと出世コースに乗っていた紫式部の父為時は、またもや官職を失くしてしまう。


それはともかく、法皇となった花山は、出家してもしばらくは愛した忯子のことが忘れられず、仏道修行で熊野に詣でるなどして謹慎していた。


ところが叔母の家に立ち寄った時、法皇は侍女の中務という女性をみそめ、つい昔のくせが出て関係してしまう。


花山法皇は中務が前の夫との間に生んだ娘とも通じて、母子二人を同時に妊娠させている。


また、花山法皇は家主で母親の妹である叔母とも懇ろになるのである。


ところが中務親子に子供が出来ると、叔母は異母弟の為尊親王に押し付けて結婚させている。


そして無軌道な法皇は出家後に、なんと四人の子供をもうけている。


そんな花山法皇は、死んだ忯子の妹で為光の四女に片思いして、毎晩のように為光邸に通っていた。


一方の藤原伊周は、為光の三女で「寝殿の上」と呼ばれる女性を妾としていた。


ところが伊周は勘違いで、花山法皇が三女の「寝殿の上」に通っているという噂を耳にして怒りをあらわにする。


前年に道長が内覧となり出世争いに先を越されていた伊周は、その鬱憤のやり場を花山法皇へと向けた。


996年1月中旬の夜、為光邸に現れた花山法皇へ、伊周の弟・隆家が矢を放つのである。


驚いた法皇はその場を立ち去るが、隆家の従者は法皇の従者を襲い、二人を殺害して首を持ち去った。


首のない遺体が発見され、事件は検非違使別当藤原実資の知るところとなり、その夜のうちに道長に報告されている。


一条天皇は、法皇に矢を射るとは前代未聞であるとして、伊周を大宰府、隆家を出雲への流罪に処した。


花山法皇は間接的ではあるが、伊周と隆家を敗北に導いたことになり、その後は道長に大事にもてなされている。


意外ではあるが、花山法皇は天皇時代に、それなりの政治的成果を残している。


984年永観2年、天皇は受領の官職の兼務を禁止し、兼ねていた分は他の者に任ずるか、停任させている。


そのほか「諸所饗禄の禁止」や、荘園整理令などの法令も出している。


また、同年に「破銭を嫌うことの停止」も、法令として打ち出した。


なにしろ、乾元大宝という貨幣が発行されて20年以上が経過していた。


欠けたり、割れたりして破損した貨幣が多く、流通しにくくなったために人々に避けようという風潮があった。


そのため天皇は破銭が貨幣の物流を妨げることのないように手を打っている。


さらに、986年寛和2年には、估価法を制定し、都を対象にして、物価安定のための施策を行っている。


効果は薄かったようだが、奇行が多い人物としてのイメージが大きすぎるあまり、花山天皇が多くの施策を実施していたのは誠に意外である。


また花山天皇が出家して法皇になったあとに巡った場所は、「西国三十三所」として伝わっている。


西国三十三所巡礼は、2府5県の33ヵ所の「札所寺院」と3ヵ所の「番外寺院」からなる観音霊場の巡礼である。


花山法皇は、奈良時代から伝わる「観音霊場33ヵ所の宝印を石棺に納めた」という伝承をもとに、宝印を探し出した。


そして法皇は巡礼の際、木の短冊に和歌を残して寺院の柱に打ち付けており、これが「御詠歌」の起源として伝わっている。


また、花山法皇は「拾遺和歌集」を編纂したことでも有名である。


拾遺和歌集は「古今和歌集」、「後撰和歌集」に次ぐ勅撰集だ。


勅撰和歌集は通常、天皇や法皇が歌人に編纂を命じるが、花山法皇は自らの手で編纂している。


晩年は菩提寺に隠棲していた花山法皇だが、1008年寛弘5年2月8日、41歳で崩御して葬られた。


死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。


花山法皇の墓は「紙屋川上陵」と呼ばれ、現在の京都市北区に所在している。


また花山院菩提寺のある「尼寺」という地名は、花山法皇に仕えた女官達が尼僧として住み着いたことに由来している。


花山法皇の第一皇子である昭登親王は、兵部卿、中務卿を歴任して38歳で逝去している。


第二皇子の清仁親王は、弾正尹などを務め、また後の二皇子は出家している。


花山法皇は文学的才能に恵まれ、政治にも活躍したにも関わらず、その評価は低い。


なぜ花山法皇は、のちに編纂された歴史物語では、好色で低能な人物として描かれているのだろうか。


これは意識的に、後世に書き加えられて悪いイメージが定着した可能性が高い。


なぜなら、冷泉天皇の第一皇子が花山天皇で直系だが、道長の父兼家は冷泉天皇の弟の円融天皇を即位させた。


さらに円融天皇に続いて花山天皇を退位に追い込み、兼家は我が孫の一条天皇を即位させている。


そのため藤原氏が一条天皇の正統性を強調したいために、わざと花山法皇をおとしめたという面も見逃せないのである。


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