しかしその時、天皇は定子が自分の子を身籠っていることを知らなかった。
もしも一条天皇が定子の懐妊を知っていれば、歴史はどのように変わったのかを詳しく見ていこう。
関白・藤原道隆が逝去して道長が内覧となった時、一条天皇は16歳になっていた。
道隆はすべて自分で政を行い、天皇は口をはさむ場面などなかった。
その点、道長は一条天皇の立場を尊重して、何事も相談してくれた。
国母の東三条院詮子は、道隆の後継者を決める時に道長を推薦したが、時間が立つにつれて天皇にもその意味がわかってきた。
道長は権力に対しては、あまり執着心がなく、自分が得になることを押し付けるようなことはしなかった。
当時、都は疫病などが蔓延し、浮浪者などがあふれ治安が悪化していた。
そのため一条天皇は、治安維持を政の第一目標に掲げた。
天皇は官吏の綱紀粛正と、有力者の従者の暴力禁止などもうるさく訴えた。
また平安時代は、天皇の一存で改元できた時代でもあった。
そのため一条天皇は、慶事、天災、疫病の流行などのタイミングで改元に踏み切り、25年間の在位中に7度も改元している。
潔癖症ともいえる天皇は、身内の暴力や不正にも厳しかった。
そのため暴力沙汰や官吏の不正が多かった道隆時代とは違い、道長が内覧となってからは政治が浄化された。
ところがそんな空気が気に入らないのか、藤原伊周と弟の隆家は何か事を起こしてやろうとてぐすねをひいていた。
伊周が陣定で道長を罵り、口論となったのもそのためである。
ちょうどそのような時に、花山法皇が、実は四女が目的であったが、藤原為光の三女のところに毎晩入り浸っているという噂を伊周は耳にする。
以前から為光の三女を妾にしていた伊周はいきり立った。
そしてお忍びで為光邸に現れた花山法皇に、隆家が矢を射るのである。
この時、伊周が隆家に命じたとも、隆家が勝手に射ったとも言われるが、真相は不明である。
事件では花山法皇の従者二人が殺害され、首を持ち去られている。
綱紀粛正を掲げていた一条天皇としては、面子丸潰れである。
花山法皇は痴話事件でもあり隠密にしていたが、一条天皇は検非違使別当の藤原実資に命じて事件を徹底的に調べさせた。
すると中宮定子の兄・伊周と弟の隆家が、事件の首謀者であることが判明する。
一条天皇は、愛する定子の肉親が関与していたことにショックを受けたが、甘い顔を見せるわけにはいかない。
自ら掲げた綱紀粛正というスローガンのために、一条天皇はやむなく伊周と隆家を厳しく裁くことになる。
一条天皇は伊周を大宰府へ、隆家を出雲へ左遷だが、実質的には流罪するという決断を下した。
ところが伊周と隆家はなんと中宮定子の寝所に隠れるという卑怯な行為を行うのである。
一条天皇は泣く泣く定子のご在所を捜索せよとの宣旨を下している。
中宮定子は、この時のショックで、自ら髪の毛を切って出家している。
ついに出頭した伊周と隆家は、それぞれ配流先に移送されている。
しかし実はこの時、定子は一条天皇の子を身籠っていたが、天皇はその事を知らなかった。
伊周と隆家が逃げ回ったのは、定子懐妊の事実をなんとか一条天皇に知らせるためであった。
のちに定子の懐妊を知った天皇は、周囲の反対を押しきって定子を内裏に連れ戻している。
定子は内親王に続いて、次には一条天皇の第一皇子である敦康親王を生んでいる。
もしも、一条天皇が伊周たちが事件を起こす前に、定子の懐妊を知っていれば、流罪などという重い刑罰は与えなかったに違いない。
つまり一条天皇の決断は、大きく変わっていた可能性が高いのである。
そして定子が産んだ敦康親王が、もちろん間違いなく皇太子となって、次の天皇となっていた。
とすれば、伊周が摂政・関白となり、道長は蚊帳の外に追いやれていたはずである。
現実には最高権力者となった道長はこの時、いつ自分も奈落の底に突き落とされるかわからないという恐怖に襲われたことだろう。
このように摂関政治とは、非常に危うい政治形態であった。
藤原氏が行った摂関政治は、学問の叡智に頼らず、性愛によって天皇をとりこめていく政治体制である。
そのため一条天皇が定子を寵愛したままの状況が続くということは、道長の政権が安定を欠くことを意味する。
当初は一条天皇の意見を尊重していた道長だが、このような経緯でその後の行動を急に大きく変化させている。
なんとか伊周と隆家の政治生命を絶つことに成功した道長だが、まだ天皇に愛される定子が残っていた。
そのため道長は、次第に一条天皇と定子の間が遠のくような方策をとっていく。
定子が敦康親王を懐妊した時、内裏から竹三条宮に退出することになったが、このとき道長は露骨な妨害工作を行っている。
同じ日に宇治への遊覧を企画してそこに公卿たちを呼び、彼らが定子のお供ができないようにしたのだ。
とはいえ、後宮を制さないかぎり、道長の権力基盤は安定しない。
そこで、道長はまだ12歳にすぎない長女の彰子の入内を画策し実現させた。
しかし彰子を女御にするという宣旨が下った同じ日に、定子が待望の第一皇子、敦康親王を出産する。
焦った道長は、兄の道隆が奇策を講じたように、同じ一条天皇の后として定子に加えて彰子を立てる。
いわゆる「一帝二后」であった。
定子は二人目の内親王を生むが、大量出血によって24歳で逝去する。
その後娘の彰子が一条天皇の皇子を生むことで、道長は幸運にも政権の頂点を維持し続ける。
藤原道長は晩年、糖尿病とともに心臓の激しい痛みにも苦しめられたという。
道長にとってこの摂関政治を行う日常というものは、薄氷を踏みながら歩き続けるという、常に心臓に負担をかける苦しい日々だったのかも知れない。
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