藤原道長が、最高権力者となりえたのは、若くしてその才能を認めた正妻の倫子と、その母親・穆子の存在があったからだと言われている。


倫子と穆子の生涯を詳しく見ていこう。


倫子の父・源雅信は、宇多天皇の孫で臣籍降下して源氏を名乗り、従一位で左大臣となっていた。


また母親の穆子は、藤原朝忠という人物の娘だが、祖父は右大臣にまでなった定方であった。


そして祖父の姉妹は、天皇の后にもなっている名門の出身者であった。


特に現役の左大臣という父の位が高すぎたため、倫子は24歳になるまで、結婚相手に恵まれなかったが評判の美人であった。


そして母親の穆子は父・雅信よりも21歳も年下で47歳であっが、仲のよい夫妻であった。


一方の道長は、一条天皇が即位して摂政となった父・兼家が、子供たちの官位を引き上げ始めた。


22歳になってやっと従三位となって公卿の仲間入りをはたした道長は、結婚するなら高貴な女性をと望んでいた。


そのため仲間のうちで美しいと評判となっている左大臣の娘・倫子に恋文を送った。


母親の穆子は道長の文を見て、縁談をすすめようとしたが、倫子を可愛がる父親の雅信は反対した。


雅信は道長の父・兼家と兄・道兼が花山天皇を騙して出家させ退位させた事件を、閣僚として間近で見ている。


そのため雅信は兼家の九条流藤原氏の一家は悪人揃いだと決めつけ、悪い印象しか持っていなかった。


しかし穆子は、加茂祭などで数回見かけた道長の年に似合わず落ち着いた物腰から女性の勘で、将来は大物になるという好印象を持っていた。


穆子は雅信が、世間的には評判の良い公卿の藤原朝光との縁談をすすめようとしたが反対していた。


朝光が大酒飲みのうえに年配の醜悪な後家に通うという悪趣味があることを、穆子は知っていたからである。


結局朝光は道隆の飲み友達だったが、日頃の不摂生が祟ったのかのちの道兼らと疫病に罹患して逝去している。


穆子は倫子の縁談のために日頃から、公卿たちの情報を詳しく調べていたのである。


そして穆子は、雅信の留守中に道長を倫子と会わせ、二人は相思相愛の仲となっていた。


雅信の頑強な反対に、普段は頼み事などしない道長だが、この時ばかりは摂政の父・兼家に正直に倫子と結婚したいことを打ち明けた。


そして雅信が、中納言ぐらいでないと倫子の婿には出来ないと言っていることも相談している。


数日後に兼家は雅信に面会して、道長を中納言に昇進させるので、是非とも二人を結婚させて欲しいと頭を下げている。


そこまでされては雅信も断る事も出来ず、また政治的には摂政の兼家と手を結ぶことは悪い話ではなかった。


978年永延元年12月、倫子と結婚した道長は、翌年には晴れて権中納言となっている。


雅信としては、道長が可愛い娘の婿となったからにはと、全面的に道長の出世のために協力している。


雅信は広大で都でも豪華だと評判の土御門邸を、道長と倫子の住まいとして提供している。


また雅信は、邸宅にある莫大な金銀財宝を倫子に相続させている。


道長は倫子の協力を得て、土御門邸に公卿たちを招き、貴重品を惜しげもなく与えることで、出世への糸口をつかんでいくのである。


道長は、東三条院詮子のすすめで彼女の元で養育されていた源高明の娘・明子とも結婚する。


高明は醍醐天皇の皇子であるため、血統的には明子が倫子に勝っていた。


しかし、雅信の並外れた支援があったために、道長は倫子を正妻にしている。


この道長と倫子の結婚は、兼家と雅信にとっても良い縁談となった。


摂政の兼家と左大臣の雅信が手を繋いだからには、鬼に金棒である。


まさに穆子の、先見性と強引に夫を説得したことがもたらした幸運であった。


倫子は道長と結婚した翌988年永延2年、長女の彰子を生んでいる。


雅信は孫の彰子が三歳で行った袴着の儀式では多くの客を招待して、目を細めて喜んだという。


この袴着の儀は、現在の七五三の由来ともなっている。


そして倫子は道長との間に二男四女の6人を、立て続けに生んでいくのである。


道長と倫子の結婚から3年後に兼家が、そして6年後には雅信が他界する。


穆子は雅信の死後は、出家して一条尼と呼ばれている。


穆子は倫子の産んだ孫たちの面倒を見ながら、ひ孫の後一条天皇が即位したのを見届けて86歳で逝去している。


倫子は、内覧として最高権力者となった道長を支え続けた。


その事は道長の「御堂関白記」にたびたび倫子の名前が登場する事で伺い知ることが出来る。


倫子は一条天皇のもとにまだ12歳の長女・彰子の入内が決まると、道長とともに準備のために何度も内裏へ参内している。


しかし倫子は、ただの優しいだけの女性ではなく、いざという時には毅然と意見を言った。


一条天皇の母・東三条院詮子は、道長のもう一人の妻・明子を養女のように可愛がっていた。


そのため当然東三条院は日頃から、明子が産んだ子供たちを倫子の子供たちよりも愛でていた。


東三条院は若い時から病弱であったが、一条天皇も出席して彼女の40歳の誕生日を祝す宴が土御門邸で開かれた。


そして倫子の10歳の長男・頼通と、明子の9歳の長男・頼宗が子供舞を披露することになった。


席上、舞が得意な頼宗は見事な舞を披露して、参加者を驚かせた。


そして頼宗の舞の師匠には、東三条院の指示で、位階が与えられた。


すると倫子は人前をはばかることなく、道長に怒りをぶちまけ、宴は台無しとなった。


そのためのちに、頼通の舞の師匠にも位階が与えられたという。


東三条院詮子は、それから数ヶ月のちには他界している。


倫子は相手が病で弱った天皇の母・国母であっても、正妻のプライドを守るためには正々堂々と意見を述べたのである。


倫子の娘は、彰子に続いて威子は後一条天皇の后に、妍子は三条天皇の后に、そして嬉子は後朱雀天皇の東宮妃となっている。


藤原道長は1018年寛仁2年10月16日、娘の威子を中宮として,一家で三人のきさきを出すという「一家三立后」を実現する。


その夜の宴で道長は、有名な「望月の歌」を詠んでいる。


倫子が産み育てた娘たちが天皇に嫁ぎ、皇子を産んだ。


そのため道長は、長きに渡って天皇の外戚として最高権力者の座にとどまることが出来た。


まさに道長は穆子によって世に見いだされ、倫子によって権力の座に上り積めることが出来た。


その後、倫子は90歳まで長生きし、さらに彰子は87歳まで生きて藤原氏を支えた続けるのである。