藤原道長が、東三条院詮子の推挙で内覧に就任すると、内大臣の藤原伊周はまるで子供のように顔から火が出るほど激昂した。


最後に伊周は、その幼児性が自らの将来の可能性を絶つことになる。


藤原道長と藤原伊周のその後を詳しく見ていこう。


995年長徳元年、関白道隆の死後に伊周は、関白をめぐって叔父の道長と争った。


しかし5月11日に母の東三条院に説得された一条天皇は、道長に内覧の宣旨を下し、翌月には伊周の上位となる右大臣に任命した。


左大臣は不在だが「一の上」となった道長は、さっそく公卿たちを召集して会議を開催した。


公卿の会議は内裏の中の近衛の詰所である「陣の座」と呼ばれる所で行われるのが普通である。


そして陣の座に大臣以下の公卿が着座して、政務について評議することは「陣の定め」と呼ばれた。


その日も通常通り「陣の定め」が行われていたが、途中で内大臣の伊周が、突然に、そんなことも知らないのかと右大臣の道長を罵った。


かつては自分が抜き去った叔父の道長が、今は上座に座っていることに伊周は耐えられなかったのである。


普段はおとなしい道長だが、年下でしかも役職が自分よりも下の伊周に罵倒されたことで顔を真っ赤にして反論した。


二人が口論する声は、陣の座の外まで響き渡り、その噂はたちまち朝廷内に広まった。


都では、伊周とその弟でまだ17歳の隆家が、腕っぷしが強く人相の良くない従者たちを数多く邸内に揃えているという噂がたった。


それから数日後、道長の従者は七条大路で、隆家の従者に些細なことで絡まれ、大乱闘となって多くの怪我人が出ている。


検非違使が事件を取り調べたが、検非違使別当の藤原実資が「合戦」と記録するほど、乱闘は大がかりなものであった。


その後も伊周・隆家と道長の従者のにらみ合いは続き、ついに道長の側近・秦久忠が殺害されている。


道長は隆家に久忠殺害の犯人の引き渡しを求めたが、隆家は逆に言いがかりだと開き直っている。


このまま伊周との対立を放置すれば、政にも支障をきたすことになる。


そこで道長は藤原実資を権中納言に、妻・明子の兄・源俊賢を蔵人頭から参議に抜てきして会議がスムーズに進行するための人事を断行している。


藤原実資は古来からのしきたりである有職故実に詳しく、敵に回すとてこずる人物である。


また源俊賢は、生前中は道隆に従っていたが、道隆の死後は道長に接近している有能な明子の異母兄である。


また蔵人頭の後任には、道長に好意を示す藤原行成を推挙し、もう一人の藤原斉信はそのまま据え置いている。


道長は人事面で秘密裏に協力者を増やし、政権の基盤を着々と固めていった。


しかしまだ二十歳過ぎの伊周と17歳の隆家は、そんな道長の思惑には全く気付かなかった。


それどころかさらに伊周の母・高階貴子の父親である高階成忠が、道長を陰陽師に呪詛させていたことが発覚する。


当時は、呪詛させることじたいが罪となった。


隆家は若いながら参議に加わっていたが、周りに賛同者のいない伊周と隆家は陣の定めで徐々に孤立して追い込まれていく。


二人が威勢を張ればはるほど、周りの年配の公卿たちからは見放されていく。


そして焦燥感にかられた伊周と隆家は、遂に前代未聞の取り返しのつかない事件を起こしてしまう。


この事件は長徳の変と呼ばれるが、996年長徳2年1月16日、伊周と弟の隆家が花山法皇を襲うのである。


伊周は眉目秀麗で頭も良く、血筋も良いという申し分のない境遇にありながら、精神面の稚拙さで権力争いに破れて落ちぶれてしまう。


そのきっかけとなったのが、花山院闘乱事件とも呼ばれるこの事件である。


伊周は以前から藤原為光の三女を恋人にして、その邸宅に通っていた。


ところが最近、花山法皇も為光の三女の元に通っているとの噂を彼は耳にする。


そこで為光邸で花山法皇の牛車を見かけた伊周は、隆家に命じて脅しに矢を射させたという。


矢は見事に花山法皇の衣の袖に命中し、驚いた法皇は逃げようとした。


すると隆家は、従者に法皇の牛車を襲わせ、法皇の従者二人を殺害して首を持ち帰らせている。


法皇は色恋沙汰が絡んでいたため、当初は事件を隠していたが、噂は都じゅうに広まった。


また死者が二名も出た事件であったために、検非違使別当の実資は、深夜にもかかわらずすぐさま道長に連絡している。


実は法皇が通っていたのは為光の三女ではなく、四女であった。


つまり伊周は、勘違いして花山法皇を襲ったのである。


五位以上の貴族の邸宅の捜索は、勅許が必要なため、一条天皇の命で伊周の邸宅が捜索された。


一条天皇も、伊周たちが法皇に矢を射るという皇室へ歯向かった事件であるだけに、厳しい態度を示している。


その捜査の段階で伊周が、臣下が行ってはならない太元帥法を修して、道長を呪詛していたことも報告されている。


これら一連の事件により、まだ若い伊周と隆家は、政治生命をたたれることになった。


この長徳の変に関しては、法皇と伊周・隆家の従者同士が乱闘となったことは事実である。


そのため一本の矢が花山法皇の牛車に突き刺さったことも事実にちがいない。


しかし伊周が法皇に対して、本当に隆家に矢を射させたかどうかは、現在も疑問とされている。


それはともかく、約一ヶ月後、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に降ろすという決定が下された。


罪名は「花山法皇を射たこと、東三条院詮子を呪詛したこと、そして私に太元帥法を行ったこと」であった。


本来なら死罪であったが、当時は公式的には死刑は廃止されていたため、大宰府と出雲への流罪となった。


伊周は、病気を理由に配所に赴き難いことを奏上したが、一条天皇は許さず却下している。


この時、捜査で事件に関係したと目された高階家の人々も伊豆や淡路へ左遷されている。


ところが伊周と隆家は、検非違使の指示に従わず、あろうことか中宮定子のご在所に隠れるという子供じみた行動をする。


そのためついに一条天皇の命令で、定子のご在所が捜索されるのである。


定子はこの時、あまりの屈辱とショックで、発作的に自分の髪の毛を切って、出家してしまう。


しかし一条天皇は定子が自分の子を身籠っていることを知り、周囲の反対を押しきって宮中へ連れ戻している。


事ここにいたっても反省しない二人の兄弟は、病と称して伊周は播磨に、隆家は丹波にとどまっている。


さらに伊周はなにを思ったのか播磨から京都へ舞い戻り、再び定子のご在所に隠れているところを発見される。


そのため伊周は捕縛され、今度こそは本当に大宰府へ送られた。


その後定子は、伊周たちがあれほど待ち望んでいた一条天皇の皇女と皇子をつづけさまに出産する。


その事を考えれば、伊周が一条天皇の命に素直に従っていれば、まだ十分に復帰の可能性は残されていた。


まだ二十歳過ぎの藤原伊周は自らの幼児性によって、自分の将来の可能性を閉じてしまったのである。


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