そしてその背景には、天皇にも匹敵し上皇に準じた地位を手に入れた女院・東三条院詮子の存在があった。
定子と詮子のその後を詳しく見ていこう。
藤原兼家の娘・東三条院詮子は円融天皇に多くの女御がいたにも関わらず、天皇の唯一の皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)を生んだ。
懐仁親王の出産が、兼家の九条流藤原氏に大きな幸運をもたらした。
しかし円融天皇は兼家が勢力を伸ばすことを嫌い、皇子を産んだにもかかわらず東三条院を女御のままに留め置いた。
そのため東三条院は、わが子一条天皇が践祚することで、やっと皇太后となっている。
一条天皇は即位から約25年間にわたり在位したため、東三条院は国母として権勢をふるった。
また父で摂政の兼家は、右大臣を辞任してそれまで兼務職であった摂政を独自の地位に引き上げている。
やがて兼家は、嫡男・道隆に摂政の地位を譲り、政界における藤原氏の勢力を固めていく。
さらに道隆の娘・定子が一条天皇の中宮におさまることで、九条流藤原氏の独占体制がほぼ確立する。
東三条院詮子と中宮定子は、叔母と姪という関係で、兼家の生前中は目立った動きはなかった。
しかし990年正暦元年、兼家が逝去すると、東三条院と中宮定子の関係は一条天皇を挟んで姑と嫁という、微妙な関係となっていく。
道隆の正室・高階貴子は、円融帝の高級女官として仕えた才女であった。
そのため藤原氏を代表する東三条院にしてみれば、貴子や定子は高階家の勢力を台頭させる存在として快く思ってはいなかった。
さらに道隆が関白に就任して中関白家と呼ばれ、まだ21歳の嫡男・伊周を内大臣にして権力を独占する動きを見せた。
そのため東三条院と、道隆、貴子、そして定子との関係は急速に険悪化していった。
それはともかく、藤原道隆は容姿端麗で明朗であったために、宮中の女房たちには人気があった。
また正妻の貴子は、高い教養を身につけていたため、定子のもとに清少納言や赤染衛門などの優れた女房たちを集めた。
そのため中宮定子のもとには、一条天皇をはじめとして、藤原公任や藤原斉信などの知的な公卿たちが出入りして一大サロンを形成した。
一方の東三条院は、父・兼家が没した翌年に病のために落飾したが、日本初の女院の称号を受けている。
女院とは単に天皇の母というのではなく、出家者が政に関わっていくことを意味し、将来の院政につながっていく。
そして院とは、上皇に準じ、天皇以上の権力を持つ存在となっていく。
そんな東三条院によって、同母兄弟である道隆、道兼、そして道長の家格が引き上がる。
道隆亡き後、道兼と道長が後継者となれたのは、東三条院の同母兄弟であったからである。
そして今までは藤原氏は天皇家に娘を嫁がせ、外戚となることで間接的に権力を手にいれて来た。
しかしその娘が産んだ皇子が天皇になれば、その女性も女院として天皇に匹敵する地位につくことになる。
つまり藤原氏出身の女性が、天皇と同等の地位を手に入れた瞬間であった。
東三条院の後を受けて、のちに道長の娘・彰子も長く上東門院として女院に君臨し藤原氏を支えた。
この時道長は妻・倫子の経済力を背景に東三条院を自邸の土御門殿に迎えて居住させている。
道長は東三条院詮子を味方にすることで以後一躍、政界のリーダーとして活躍することになる。
東三条院のバックアップで、五男坊の道長が突然見違えるように出世していくのは、こうした背景があったからである。
道長は東三条院の勧めで、元左大臣の娘・源明子と結婚したことで、さらに名声を手に入れている。
この結果、権力構造は一条天皇を挟んで、関白の道隆、伊周、そして定子と、道長と女院の東三条院という対立構造を形成することになる。
しかし中関白家の春は、長くは続かなかった。
道隆が関白に就任してわずか5年の995年長徳元年の春、飲水病(糖尿病)によって逝去するのである。
道隆の後を継いだ道兼も直ぐに死去したため、伊周と道長が後継を争った。
定子に頼まれて伊周を後継者に推していた一条天皇も、東三条院の鶴の一声で沈黙する。
強力な後ろ楯である東三条院詮子を味方につけた道長が勝利するのは、ごく自然の流れであった。
定子の兄・伊周と弟の隆家は、道長との権力争いに敗れ流罪となり、中関白家は急激に没落する。
父親と兄弟という後ろ楯を続けて失った定子は自ら落飾する。
しかし一条天皇はわが子を身籠った定子を、周囲の反対を押しきって宮中に連れ戻す。
そのため周囲からは自ら落飾した皇后を、内裏に住ませることが批判の対象となった。
999年長保元年、ちょうどそのような時期に内裏が焼失したために、尼皇后を入内させたためだとの批判が殺到した。
結局定子は宮中を離れ、皇女に続いて皇子・敦康親王を出産している。
同じく出家した東三条院が内裏に滞在することは全く問題にされていないところから、定子の排除は道長の策謀である可能性が高い。
中関白家が没落すると、東三条院と道長の関係に変化が現れる。
道長が内覧として、表むきの政治の権力者となったのに対し、女房たちをまとめる裏の政治は依然東三条院が仕切っていた。
東三条院としては、中関白家が没落した以上、定子が産んだ敦康親王を皇太子にする方が操るには好都合である。
一方の道長は、入内した自分の娘・彰子に皇子を一日も早く産ませたい。
東三条院は敦康親王の後見人となるべく、伊周と隆家の政界復帰を望んだが、道長は許さなかった。
そんな中、定子は二人目の皇女を出産後に逝去する。
そして翌1002年長保3年、東三条院詮子も40歳で逝去する。
もしも、詮子がもう少し長生きしていれば、道長はすんなりと最高権力者の座に着けなかったに違いない。
平安時代は大きな戦こそ少なかったが、水面下では兄弟姉妹を巻き込んだ果てしないパワーゲームが繰り広げられていたのである。
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