源明子と兄の源俊賢は、父・源高明が藤原氏に「安和の変」で失脚させられたにもかかわらず、のちに明子は藤原道長の妻となり、兄も道長に仕えている。


源明子と俊賢の波乱万丈の生涯を詳しく見ていこう。


969年安和2年、源満仲と藤原善時が、橘繁延と源連を謀反の疑いで密告すると言う事件が起きた。


世にいう「安和の変」の始まりである。


その結果、醍醐天皇の第10皇子である左大臣の源高明が、娘婿の為平親王を皇位につけようとしているとの疑いが発覚し、大宰権帥に左遷された。


まだ11,2歳であった三男の俊賢は、父・高明に同行することを許され大宰府まで随行している。


左大臣が失脚したため宮中は大騒動となったが、実はこの事件には背景があった。


当時、冷泉天皇が精神を病んでいたため、兼家ら藤原氏は次の天皇に同母弟の守平親王(のちの円融天皇)を立てようとした。


しかしライバルには同母弟で、源高明の娘と結婚している為平親王がいた。


もしも為平親王が即位して男子が生まれれば、高明の源氏が外戚となり、兼家ら藤原氏にとっては大変な脅威であった。


そのため藤原氏の他氏排斥の一貫として、高明が失脚したのである。


円融天皇が即位すると高明は赦されたが、政界に復帰することはなく、982年天元5年に没するまで葛野に隠棲した。


父の左遷は俊賢に藤原氏の勢力の強大さを痛感させ、その後の処世術に大きな影響を与えたと考えられる。


また、俊賢は高明によって厳しく育てられ、大学寮でも学んだようである。


高明を失脚させて他氏追放に成功し藤原氏は、次には同族の兄弟同士で権力争いを繰り広げ兼家が氏長者となっている。


兼家は円融天皇に続いて花山天皇を退位させ、娘の詮子が生んだまだ7歳の一条天皇を即位させることに成功する。


俊賢は、兼家のもとで順調に出世を重ね、政権を引き継いだ道隆、道長のもとでも優秀な能吏として働いている。


一方の明子は、「安和の変」のときはまだ幼く、父の失脚後は叔父の盛明親王の養女となっている。


そのため明子は皇族として扱われ、資料には「明子女王」と記述されている。


盛明親王が亡くなると、明子は一条天皇の母・東三条院詮子に引き取られ養女のように大切に育てられた。


東三条院はお気に入りの道長に、成長した明子のもとに通うことを許し、明子は道長と結婚している。


道長の結婚については、倫子よりも明子の方が早かったようで、倫子のもとへ通いはじめた道長を恨む和歌が残されている。


しかし父親が現役と元の左大臣という点で、倫子が正妻で、明子は第二夫人扱いであった。


そのため倫子と明子には厳然とした待遇の差があった。


たとえば藤原実資の「小右記」では、倫子のことを「北の方」と呼び、明子を住んだ邸宅にちなんで「高松殿」と書き分けている。


倫子も明子も、それぞれ6人づつの道長の子供を生んだ。


しかし、明子は妾にすぎなかったようで、 この待遇の差は、生まれた子供にも適用された。


倫子からは頼通・教通など摂関を継ぐ男子と、彰子以下、天皇の中宮などになる女子が生まれた。


しかし明子の子供たちは、 男女ともに倫子の子の地位には遠くおよばなかった。


たとえば1001年長保3年10月、詮子の40歳の祝賀が一条天皇来臨のもとに土御門邸で行なわれた。


この祝賀の席で、倫子の10歳の子・頼通と、明子の9歳の子・頼宗が舞を披露した。


明子の子・頼宗は舞が得意で、「納蘇利」を舞った見事な頼宗の姿に、参加者の中には涙を流す者もいた。


一条天皇も頼宗の舞に感激し、頼宗の踊りの師匠に位階を与えた。


すると立腹した倫子をなだめるために道長も座を立ち、その後の祝賀会は白けてしまったという。


そのためのちに倫子の子・頼通の師匠にも同じ位階が与えられている。


見事な舞を披露しながら、悪いことをしたように扱われた明子の子・頼宗こそ哀れである。


道長は藤原家を守るために、正妻と妾の子供たちの序列を厳しくした。


東三条院詮子はこの祝賀会の後、間もなく40歳で没している。


子供たちにも厳しい待遇差がありながら、明子が耐えられたのは、兄の俊賢の適切なアドバイスがあったからである。


俊賢は幼い時に、父・高明に従って、大宰府まで同行して、藤原氏の権力の強大さ、卑劣さを身にしみて思い知らされていた。


そのため何があっても、時の権力者に逆らってはいけないことを、俊賢は口を酸っぱくして明子に教えたに違いない。


兼家に続いて道隆、道長に従順に仕えた源俊賢は、995年長徳元年に参議に任ぜられ公卿に列した。


さらに俊賢は蔵人頭になった際、藤原斉信を差し置いて正五位下・右中弁に任じられている。


一方の明子は29歳で第一子の頼宗を生むと、それ以降、顕信、能信、寛子、尊子、長家と四男二女を生んだ。


末子の長家を生んだのは明子が42歳の時なので、かなりの高齢者出産であった。


明子の子供たちの後見人は、東三条院詮子であった。


そのため東三条院の生前中は、倫子と明子の子どもたちの昇進などにも差はつかなかった。


しかし東三条院が亡くなると、その差は明らかになっていく。


例えば、一条天皇の後を継いだ三条天皇には、第一皇子に敦明親王がいた。


敦明親王の母は右大臣藤原済時の娘・娍子であった。


本来は第一皇子である敦明親王が、皇太子になるべきであった。


ところが道長は圧力をかけて、敦明親王に辞退させ、自分の孫の敦成親王(のちの後一条天皇)を皇太子にしている。


敦明親王は皇太子を辞退したただ一人の皇子として、歴史に記録されている。


すると道長はなんと皇太子を辞退した返礼に、敦明親王と明子の娘・寛子を結婚させるのである。


倫子の娘たちは皆、天皇の中宮となっているというのにである。


しかしこんな仕打ちにも明子がじっと耐えられたのも、そばにそっとなだめてくれる俊賢という兄がいたからである。


俊賢は1010年寛弘7年には、藤原公任、藤原隆家、藤原行成の3人の公卿たちを飛び越えて、極位である正二位に至っている。


そのため源俊賢は、藤原公任、藤原斉信、藤原行成とともに一条朝の四納言と呼ばれている。


源俊賢は1027年万寿4年6月12日に病篤きによって出家し、翌13日に逝去している。


享年は父の高明と同じ69であった。


源明子は顕信と寛子の二人の子どもに先立たれたが長命で、兄俊賢の死から22年目の1049年永承4年、85歳で逝去している。



明子の子孫は女系ながらも、血筋は皇族、および五摂家に繋がっている。



多くの孫やひ孫に囲まれた、寂しくない最期だったようである。