一条天皇は叔父の藤原道長が、次第に増長して天皇や皇太子の廃立を独断でおこなうようになったために道長を恨んだ。


一条天皇の最期を詳しく見ていこう。

一条天皇は980年天元3年、円融天皇の第一皇子として、藤原兼家の娘・詮子との間に生まれた。


兼家は我が孫・一条を帝位につけるため、三男の道兼と花山天皇を騙して出家させている。


そして7歳で即位した一条天皇だが、兼家が病で引退すると嫡男の道隆が摂政となった。


道隆は娘の定子を中宮とすると、兄の伊周を参議にするなど我が家のみを優先している。


やがて定子のもとには清少納言などの優秀な女房たちが仕え、一条天皇は定子と仲睦まじく過ごした。


しかし世間では天然痘やはしかなどの疫病が蔓延していたが、関白となった道隆は大酒を飲み政を怠っている。


995年、年号が正暦から長徳に改元されたが、疫病は全くおさまる気配を見せなかった。


道隆は飲酒により糖尿病が悪化すると、代わりに嫡男・伊周を内覧にすることを一条天皇に申し出て宣旨が下されている。


宣旨は道隆の「病間」というものであったが、道隆の正妻・貴子の兄高階信順が「病替」と改ざんしようとした。


そのため一条天皇と母の東三条院詮子は、高階家を警戒した。


また若くして内大臣となっていた伊周は傲慢となり、回りの者たちから嫌われていた。


ある時、東三条院が石山寺へ参詣したため、道長や道綱など多くの公卿たちが同行した。


ところが伊周は多忙を理由に粟田口のあたりで引き返してしまう。


そのため東三条院は、甥・伊周に悪印象を持ち嫌ったと言われている。


それでも道隆が死去すると、一条天皇は愛する定子の兄・伊周を関白に次ぐ内覧にしようとする。


しかし東三条院が、高階家が台頭することを恐れ、道兼を関白にするよう一条天皇を説得した。


関白に就任してわずか10日ほどで、道兼は疫病で逝去したため「七日関白」と呼ばれた。


他にも7人の現役の公卿たちが疫病で逝去したため、後継者争いは伊周と道長の二人に絞られる。


この時も東三条院が一条天皇の寝所にまで押し掛けて、夜通し中説得して、道長が内覧となっている。


伊周は妹の定子が一条天皇に愛されていることをいいことに、国母として天皇以上の絶対的な権力を持つ東三条院詮子を侮ったことが致命傷となった。


道長は内覧とともに右大臣に就任し、藤原氏の氏長者にもなったために、権力が一挙に道長に集中する。


そのため常軌を逸した伊周は、公卿たちがそろった陣定で、道長を罵ったために二人は口論となっている。


藤原実資は「小右記」に、その3日後に、道長と伊周の弟・隆家の従者同士が七条大路で乱闘を繰り広げ、道長の従者が殺害されたことを記している。


翌996年長徳2年、焦って冷静さを失った伊周は、隆家と花山法皇に矢を射るという不敬を犯して流罪となる。


父親に続いて兄の伊周という後ろ楯をなくした中宮定子は、発作的に自分の髪の毛を切り出家してしまう。


一条天皇の子を身籠っていた定子を哀れんだ天皇は、周囲の反対を押しきって定子を宮中に連れ戻している。


道長は定子を皇后に祭り上げ、我が娘・彰子を中宮にすると言う強硬手段に打って出る。


そのため一条天皇と道長の関係は徐々に険悪となっていく。


やがて定子は、内親王に続いて一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産している。


しかし定子は一条天皇の二人目の内親王を生むと、大量出血を起こして逝去してしまう。


中宮となった心のやさしい彰子は、定子が残した敦康親王を引き取って養母となっている。


彰子は一条天皇との間に敦成親王(のちの後一条天皇)と、敦良親王(のちの後朱雀天皇)を生んだ。


しかし一条天皇も彰子も定子の忘れ形見・敦康親王が皇太子になることを望んで大事に育てた。


ところが一条天皇の生前中に、敦康親王を皇太子にすることを道長は絶対に許さなかった。


そのため敦康親王を我が子のように育てた中宮彰子は、父・道長の冷徹なやり方に反発して、道長のライバル・藤原実資に相談している。


この時に中宮彰子と実資を取り次いだのが、紫式部であった。


ところで、一条天皇は大変な文学好きで、関白道隆は定子の女房に清少納言らを揃えていた。


そのため道長もそれにならって、彰子のもとには紫式部や赤染衛門などの優秀な女房たちを集めた。


これによって平安女流文学が花開き、「源氏物語」や「栄華物語」が生まれた。


また、一条天皇自身も楽才があり、横笛の名手であったという記録が残されている。


天皇は学問に秀でながらも温和な性格だったとされ、摂関家が大きな権力を握るなかでも協調の姿勢を見せた。


そして天皇は優秀な人物には分け隔てなく機会を与えたため、宮中には特に女性の優秀な人材が集った。


我が国に、仮名文学や寝殿造り、大和絵や仏像彫刻などの国風文化が花開いたのはこのためである。


さらに一条天皇は大変な愛猫家でもあったことは有名である。


藤原実資は「小右記」の中で、内裏で生まれた猫のために、一条天皇は儀式まで執り行ったことを記録している。


この猫は「命婦の御許」と名付けられ、乳母を付けてもらって叙爵まで受けている。


また、清少納言が執筆した「枕草子」には、一条天皇と命婦の御許とのエピソードが以下のように記載されている。


命婦の御許につけられた乳母は「馬の命婦」という名前の女性であった。


ある時、命婦の御許が言うことを聞かないために馬の命婦が腹を立てた。


そして同じく宮中で飼われていた翁丸という犬に、命婦の御許を驚かせるように命じた。


翁丸に吠えられ驚いた命婦の御許は、慌てて一条天皇のもとへ逃げ込んだ。


事情を知った一条天皇は激怒し、翁丸は打ち据えられ、馬の命婦は追放されたという。


命婦の御許は、人に飼われた猫の中で名前を持つ特定の個体として記録が残る日本では最古のペットである。


そんな猫好きの一条天皇であったが、道長の強引な政治手法には次第に嫌悪感を覚え反目していく。


もともと病弱であった一条天皇は1011年寛弘8年5月22日、ついに病いに倒れた。


この病いを機に天皇に譲位してもらう好機にしよ うと考えた道長は三日後、内々に占術師を呼んで譲位の占いをおこなわせた。


すると譲位どころか天皇の命が危ないという卦がでてしまい、おどろいた道長は清涼殿の二間でわんわん泣きだした。


天皇はこのとき清涼殿夜御殿で病臥していたが、几帳の惟 のほころびから一部始終をすべて見ていた。


道長が天皇が病臥する次の間で泣いたことは、彼一流の芝居だったようである。


自分の余命が短いと知った一条天皇は、ますます病状が悪化して、翌月には重体となった。


そして危篤状態となった一条天皇は、6月22日には人事不省におちいっている。


翌朝には一時意識は回復するが、その数時間後に一条天皇はついに崩じた。


叔父の道長に翻弄され続けた、32年という短い生涯であった。


一条天皇の手箱からは、「悪臣がいると、天皇の意向が隅々に届かない」という意味の漢詩が残されていたという。


あらたに三条天皇が即位するが、皇太子には敦康親王ではなく、敦成親王を道長は指名している。


これには我が子・敦成が皇太子になったにもかかわらず、中宮彰子は敦康を差し置いた道長やり方に激怒したという。


三条天皇は冷泉天皇の第二皇子で、母は兼家の長女超子である。

自分の孫・敦成親王を早く天皇にしたい道長は、さらに三条天皇とも確執を深めていくのである。


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