20代半ばを過ぎた紫式部は、20歳も年上ですでに三人妻がいる藤原宣孝の求愛を受け入れて結婚した。


なぜ紫式部は、宣孝を結婚相手に選んだのだろうか。


紫式部と藤原宣孝のその後を詳しく見ていこう。


式部の父・藤原為時は長く官職がなかったが、藤原道長が内覧に就任した翌年、越前守に任命された。


式部をはじめ家族たちはよろこび合ったが、為時一人を赴任させるわけにもいかず、式部が同行することになった。


為時と彼女は996年長徳2年、任地先の越前に赴いている。


すると越前の式部のもとには、しきりに藤原宣孝から求愛の恋文が寄せらるようになった。


藤原宣孝は父・為時の友達で、式部とも昔からの知り合いであった。


ところが、関白・道隆が亡くなった995年長徳元年、筑前守の任期を終えて都に帰った宣孝は、急に式部に熱心に結婚を迫るようになった。


彼女の結婚については「紫式部ともうひとりの夫」の動画で詳しく述べたように、彼女の結婚については「一度説」と「二度説」がある。


いずれにしても、20台半ばを過ぎた女性が、一人身でいることは当時では不自然であった。


しかし、宣孝が20歳も年上なうえに、少なくとも3人の妻がいて、それぞれ子どもがいることを式部は知っていた。

藤原顕猷の娘との間に長男・隆光、平季明の娘との間に二男・頼宣、藤原朝成の娘との間に四男・隆佐と五男・明懐。


その他母親がはっきりしない三男・儀明と女子などの、宣孝には少なくとも五男一女の子どもがいた。


長男の隆光は、すでに式部とあまりかわらない年齢になっていた。


宣孝は派手好きで、何事もあまり気にしない快活な性格であった。


そのため宣孝は式部に熱烈な恋文を送りながらも、その一方で、参議で近江権守・平惟仲の娘のもとに通っているという噂が流れていた。


紫式部は宣孝から送られてくる大量の恋文を前にして、結婚するかどうか思案にくれたに違いない。


彼女は宣孝への返事に、次のような歌を送っている。


みづうみに友よぶ千鳥ことならば

八十の湊に声絶えなせそ


近江守の娘にも声をかけているようで、そんなにあちこちに声をかけるのが好きなら、千鳥のように琵琶湖の湊じゅうを呼び歩いたらいいでしょう!と言うような意味である。


藤原宣孝が一般常識をあまり気にしない人物だったことを示す、次のようなエピソードが残っている。


当時は貴族の間で、吉野の金峯山に詣でる御嶽詣でが流行っていた。


身分の高い人でも、質素な出で立ちで参るのが常識であった。


すると長男の隆光と御嶽詣に出かけことになった宣孝は、赤や青、黄色の派手な着物で出立した。


一ヶ月後に無事帰って来た宣孝たちを、知人たちは心配そうに迎えた。


常識外れの派手な格好で出かけた二人に、不吉なことが起こりはしないかと危ぶんだのだ。


ところが数ヶ月後に宣孝は、筑前守に任命されるのである。


中宮定子に仕えていた清少納言は「枕草子」でそんな宣孝のことを批判している。


御嶽詣は質素な出で立ちで行くのが常識なのに、派手な服装で行く宣孝のような人は「見たことがない」と記述した。

のちにこれを見た紫式部は、日記に清少納言の悪口を書き、二人の仲が悪いと言われる原因となった。


それはともかく、ではなぜこのような派手好きな浮気男を式部は結婚相手に選んだのだろうか。


それには経済的理由と、性格的理由の二つがあった。


経済的理由とは、父の為時が越前守となって経済的に安定したことがあげられる。


当時の貴族は婿入り婚が主流で、結婚生活は妻の実家が経済的に負担することが多かった。


そのため貧しい貴族の娘は、なかなか結婚出来なかったのである。


さらに宣孝が経済的に豊かであったことも、彼を選んだ理由である。


次の性格的理由とは、宣孝がいい加減なところもあるが、やさしくおおらかで社交的な人物であったことである。


何事にも几帳面で、論理的に物事を考える内向的な紫式部とは真逆である。


人間とは往々にして、自分にはないものを求めるものである。


熱心に恋文を送ってくる、親子ほども年の離れた宣孝を、彼女はいつしかいとおしく思うようになっていく。


何しろ当時は、経済的理由などから、女性は何度も再婚するのが普通であった。


997年長徳3年秋、紫式部は父親を越前に残し帰京し、翌年夏に宣孝と結婚している。


人生経験豊かな四十代半ばの宣孝との結婚生活は、式部にとっては刺激的なものであった。


宣孝は舞が得意で、賀茂祭や石清水祭などの舞人のトップを務める酔狂な人物であった。


式部と宣孝は、結婚した翌年の正月には派手な喧嘩もしている。


彼女が書いた恋文を、宣孝が友人や同僚たちに見せびらかしていると言う噂を侍女が聞き付けてきたのである。


のちに「源氏物語」を書く式部であるから、恋文の内容も優れていたので、宣孝としては自慢したかったに違いない。


二人は和歌を交換しながら、激しい喧嘩をしたのちに仲直りしている。


この年の冬に紫式部は賢子(のちの大弐三位)を生んでいる。


しかしそんな夢のよう新婚生活も、長くは続かなかった。


当時は天然痘やはしかが流行していたが、結婚して三年目の春に宣孝が罹患して急死するのである。


当時の葬送は夜行われたが、式部は暗い夜道を呆然と鳥辺野に向かった。


宣孝の火葬される炎を見て、彼女はなにを思ったのだろうか。


紫式部はこの宣孝の死をきっかけに「源氏物語」を執筆したと言われている。


「源氏物語」の主題の一つが「世の無常」であることから、彼女が大きな喪失感をあじわったことは間違いない。


彼女はこの後、宮中へ上がり、シングルマザーとして強く生きながら「源氏物語」を執筆していくのである。