藤原定子と彰子はともに一条天皇の中宮となったが、定子がわずか25歳で没したのに対して彰子は87歳まで長生きした。


定子と彰子のその後を詳しく見ていこう。


定子は976年貞元元年、藤原道隆と高階貴子の長女として生まれた。


そして定子は990年正暦元年、わずか14歳で3歳年下の一条天皇のもとに入内している。


定子の母高階貴子は、高才と謳われた学者・高階成忠の娘である。


高階家は没落貴族であるが、成忠は学問には優れ、そのため娘の貴子も漢詩文などにも造詣が深かった。


貴子は、円融天皇に仕えた優秀な女房で、そのため定子も漢文の教養があったという。


ドラマにも登場した「香炉峰の雪」の場面は清少納言の「枕草子」にあるエピソードである。


定子が「少納言よ。香炉峰の雪はいかが」と尋ねると、清少納言が格子を上げさせて、簾を巻き上げたシーンである。


中国の白居易(白楽天)の漢詩を定子も清少納言もよく知っていたことから成り立つパフォーマンスであった。


「枕草子」には漢文の教養を元に清少納言が藤原斉信など男性貴公子達と丁々発止と渡り合う様子が描かれている。


このような清少納言の活躍は定子のサロンが漢文の教養を積極的に発揮することができる環境であったことを示している。


定子は入内して一条天皇の後宮に入り中宮となると、まだ幼い天皇をうまくリードし良好な関係を築いた。


995年正暦6年、定子の妹・原子が居貞親王(のちの三条天皇)の後宮に入ると、道隆の中関白家は絶頂期を迎える。


定子は容姿端麗で才女でありながらもやさしい性格で、緊張していた清少納言を気遣い、優しく接した。


年齢は清少納言の方が10歳ほど年上だが、定子に強い憧れと尊敬を抱いた様子を「枕草子」に綴っている。


しかし大黒柱の関白・道隆が、飲酒による糖尿病の悪化で急死する。


定子の兄・藤原伊周が後継者争いに敗れ、道長が権力者となる。


翌996年長徳2年、追い込まれた伊周とその弟・隆家は花山法皇に矢を射るという不敬事件を起こして流罪となり、中関白家は没落する。


天皇の子供を育てる経済的負担は、妻の実家の役目であったため、実家が没落することは中宮にとっては致命的であった。


そのためまだ21歳の定子は一条天皇の子を宿していたが、発作的に髪を自分で切って出家してしまう。


母の貴子は、定子の将来を案じながら死去するが、定子は後ろ楯をすべて失くした中で、内親王を生んでいる。


一条天皇は定子を哀れんで、周囲の反対を押しきって彼女を宮中へ戻した。


定子は、内親王に続いて一条天皇の第一皇子となる敦康親王を生んでいる。


一方の藤原彰子は988年永延2年、藤原道長と源倫子の長女として生まれたが、定子の12歳年下であった。


彰子は三歳ではじめて袴をつける儀式、七五三の起源となった着袴儀をおこなっている。


この時、儀式を知らずに参加しなかった藤原実資は道長と義父の源雅信に嫌な顔をされたと、日記に綴っている。


999年長保元年、道長は彰子が11歳になると、中宮に定子がいるにも関わらず一条天皇の後宮に入れている。


翌年に道長は定子を皇后にあげ、彰子を中宮にしようとした。


この時、一条天皇の母・東三条院詮子は道長を押したが、一条天皇は定子のことを思い最後まで反対している。


結局、彰子は中宮となり、定子は二人目の女の子を生むが、産後のひだちが悪く逝去してしまう。


心やさしい彰子は、定子が生み残した敦康親王を引き取って養母となっている。


彰子は清少納言に、引き続き自分に仕えるように求めたが、清少納言は辞退して宮中を去っている。


道長は彰子のもとにも、紫式部や和泉式部などの優れた女流文学者を揃えた。


そのため、文学好きの一条天皇も次第に彰子のもとにも頻繁に通うようになる。


そして彰子は、敦成親王(のちの後一条天皇)に続いて敦良親王(のちの後朱雀天皇)を生んだ。


紫式部は日記に彰子の出産の様子を、事細かに記録している。


一条天皇が崩御して三条天皇が即位すると、道長は彰子には無断で敦康親王を差し置いて敦成親王を皇太子にする。


定子の忘れ形見の敦康親王を養母として大事に育てていた彰子は、道長のあまりに強引なやり方に反発している。


1016年長和5年、三条天皇は眼病を患い、道長の圧迫もあり譲位を決意する。


そして、ついに道長の孫・敦成親王(後一条天皇)が帝位についた。


このときわずか9歳。道長は摂政となるが、実際に政治を担ったのは国母である彰子であった。


翌年には、道長に代わって彰子の 同母弟である頼通が摂政となっている。


さらに彰子の妹・威子が入内し、後一条帝の 後宮に入るなど、道長の一族は繁栄 を極めた。


しかし、父道長をはじめ頼通や妹たちが、彰子に先立って亡くなっていく。


道長の死後は彰子が文字通り大黒柱となって朝廷と藤原氏を支え続けた。


後一条天皇に続いて後朱雀天皇も崩御すると、彰子は大女院として積極的に政治にも関与している。


実は、彰子は紫式部に頼んで、こっそり漢文の手ほどきを受けていた。


そして彰子は、漢文を通して正しい権力者のあり方や政治を学んでいたのである。


世は摂関政治から院政に移っていく過渡期であったが、世の無常を嘆きながらも彰子は孤軍奮闘した。


そして彰子は朝廷と藤原家を支え続け、1074年承保元年、87歳 で逝去している。


紫式部が漢文を教え教育した彰子が、藤原氏の摂関政治を支え続けたのである。


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