藤原隆家は兄の伊周とともに、藤原道長との権力争いの末、花山法皇に矢を射って流罪となった。藤原隆家の最期を詳しく見ていこう。


藤原隆家は979年天元2年、藤原道隆と高階貴子の間に四男として生まれた。


天下の「さがな者」とささやかれた中関白家の御曹司が藤原隆家である。


さがな者とは「性悪者」「荒くれ者」という意味で、隆家は若い時は手に負えないやんちゃ者だったようだ。


隆家は弓の腕もなかなかだったらしく藤原道長が書いた御堂関白記には次のように記述されている。


「宮中行事の弓場始では権中納言がよく射た第一人者であった」


「よく射た者の第一は権中納言で、最初の矢を的に当てた」と道長は隆家の弓の腕を絶賛している。

また隆家の姉・定子に仕えていた清少納言は、「枕草子」に隆家と定子が会話をしたときの様子を記している。


まだ17歳頃の隆家は姉の中宮定子に、「めったに手に入らない珍しい骨を手に入れたから、それに貼る最上の紙を探している」と話した。


定子にどんな骨なのかと聞かれた隆家は「とにかく誰も見たことがないすごい骨だ」と言い返す。


すると清少納言が横合いから「それは骨がないと言われるクラゲの骨では」と会話に加わった。


その当意即妙な答えが気に入った隆家は「それを自分が言ったことにしてくれ」と清少納に言伝えたというエピソードが残っている。


隆家はユーモアがある反面、お調子者の性格であったことが分かる話である。


一条天皇の世のはじめの989年永祚元年、隆家は11歳で元服して従五位下に叙爵した。


そして995年長徳元年4月に権中納言に任ぜられるが、まもなく父・道隆が没する。


道隆の弟である藤原道兼が関白となるがこれもまもなく没し、兄の伊周と後継の座を争った藤原道長が内覧・右大臣となった。


そのため血気盛んな隆家は従者をけしかけて道長の従者と七条大路で乱闘を繰り広げ、道長の随身・秦久忠を殺害している。


さらに隆家は翌996年長徳2年、兄で内大臣・藤原伊周の命令で花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜くという事件を起こしている。


この花山法皇の不敬事件は長徳の変として、隆家は出雲権守に、伊周は大宰権帥に左遷された。


なお、隆家は出雲国までは行かずに病気を理由に但馬国に留まっている。


また兄の伊周も大宰府へは行かなかったが、母の高階貴子が病と知ると京都へ無断で舞い戻っている。


伊周は中宮定子のもとに身を寄せるが、それを知った一条天皇は腹を立て検非違使を中宮の御在所へ向かわせる。


しかし伊周は逃亡をくわだてて愛宕山に潜伏するが、結局大宰府へ送られた。


 中宮の権威を踏みにじられ、発作的に定子は自分で自分の髪の毛を切って「出家」してしまう。


それでも定子を愛する一条天皇は、定子を連れ戻している。


やがて定子は、一条天皇の皇子と皇女を生んだため、伊周と隆家は京都へ復帰する。


しかし定子は二人目の皇女を生んだ時に亡くなり、道長の娘・彰子が一条天皇の中宮となる。


伊周は失意のうちに32歳の若さで逝去している。


1019年寛仁3年3月28日、それまで平穏だった日本の壱岐対馬が一転して突然に無残な殺戮と略奪の舞台になった。


正体不明の船50隻が現れ、猛スピードで海岸に近づくと、一隻には5,60人が乗っていて、上陸後は、100人ほどが一隊を作った。


大宰権帥となった藤原隆家は、この九州を襲った刀伊の入寇と呼ばれた事件での活躍で有名となった。


隆家は総指揮官として指揮して勇敢に応戦し、侵入者を撃退した。


次に刀伊は高麗沿岸を襲うが高麗の水軍に撃退され、拉致された300人ほどの日本人が保護されている。


日本人の捕虜を送還してくれた高麗の使いに対して、隆家は褒美を与えるなどの適切な処理を行い名声を高めている。


さらに隆家は、和歌の才能もあり、「後拾遺和歌集」に2首、「新古今和歌集」に1首作品が収録されている。


また、漢詩集の「本朝麗藻」にも、隆家の漢詩が残されている。


その後、道長や藤原実資とも良好な関係を続けた藤原隆家は1044年寛徳元年、66歳で逝去した。


隆家が死去した翌年に、隆家の息子良頼と経輔が揃って権中納言に上っている。


経輔の六代あとには、後鳥羽天皇が出るなど、隆家の家系は再び日本の中枢に復帰している。


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