紫式部は藤原道長の妾であったと、日本の初期の系図集「尊卑文脈」に記述されている。


そのため紫式部は、道長の正妻・倫子と何度か顔を付き合わせて対決する場面に遭遇している。


紫式部と倫子のその後を詳しく見ていこう。


藤原道長は987年永延元年、22歳の時に左大臣・源雅信の娘・倫子と結婚している。


倫子はこの時24歳で、道長よりも2歳年上の姉さん女房であった。


道長は倫子と結婚し婿入りすることによって、土御門邸という広大は邸宅と莫大な財産を相続し、権力者への足掛かりをつかんだ。


五男坊の道長は、父・兼家に続いて道隆と道兼の二人の兄を喪い、九条流藤原氏の後継者となった。


道長は兄・道隆の嫡男・伊周との権力争いにも勝利して、倫子との長女・彰子を一条天皇のもとに入内させている。


一方の紫式部は藤原宣孝と結婚して、彰子が入内した年に長女の賢子を生んでいる。


しかし夫の宣孝は、結婚からわずか三年目に疫病のために死去する。


29歳でシングルマザーとなった紫式部は、宣孝の死をきっかけに「源氏物語」の執筆を開始したと言われている。


書きためた「源氏物語」を紫式部は友人だけに見せたが、その優れた作品の評判はたちまち宮中にまで広がった。


ところで倫子と紫式部はまたいとこだと言われ、邸宅も隣同士であった。


そのため「源氏物語」の評判を聞いた倫子が、紫式部を彰子の女房に採用したとする説が有力である。


紫式部は34歳のころに、18歳の中宮彰子の教育係の女房として出仕している。


ドラマでは、紫式部と道長は幼い頃からの知り合いに設定されている。


実際に、紫式部と道長もまたいとこだと言われていることからその可能性は十分にある。


しかし紫式部が雇われた目的は、文学好きの一条天皇の愛を娘の彰子に向けさせるためである。


倫子と道長は、そのために彰子に才能のある赤染衛門や和泉式部といった女房を仕えさせた。


当初の紫式部は、その女房たちの一人に過ぎなかった。


ところが「源氏物語」が大変な評判となって、一条天皇もファンになるにつれて、紫式部の立場も飛躍的に上昇する。


一条天皇は「源氏物語」を読むために、紫式部のいる彰子のもとに頻繁に通うようなり、自然とそのまま泊まることが多くなった。


そして紫式部が出仕した2年後に彰子は、敦成親王(のちの後一条天皇)を、3年後には敦良親王(のちの後朱雀天皇)を生むのである。


まさに道長にとって紫式部は、幸運を呼ぶキューピッドであり、絶対に手放せない福の神であった。


そのため道長はこの頃から、紫式部への接し方を急にあらためたようである。


ある時、道長は朝早くに紫式部の部屋を急に訪れている。


寝起き直後の顔を見られてしまった紫式部は、立派な姿で登場した道長に困 惑した。


道長は、庭に咲いていた満開 の女郎花の枝を紫式部に渡し、いきなり彼女に和歌を詠むように求めたりしている。


紫式部の気を引こうとする道長の思いが、切々と伝わってくる行動である。


またある時は「源氏物語」が、中宮彰子の前に置かれているのに道長は目を留める。


すると道長は、紫式部と雑談をしながら、梅の下に置かれていた紙に次のような和歌をしたためた。


「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」


その意味は、梅の実は酸っぱく美味であるから、枝を折らずに通り過ぎる者はおらないだろう。


つまり道長は紫式部に「色恋沙汰の好き者と評判の貴女だから、口説かずに素通りする男はおるまい」との和歌を贈ったのである。


すると紫式部は道長に次の歌を返している。


「人にまだ折られぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむ」


「梅はまだ人に折られてはおりませんのに、誰が酸っぱい実を食べて、口を鳴らしたのでしょう」という意味である。


私には男性の経験などまだありませんのに、誰が好き者だなどと噂を立てるのは心外です、と紫式部は言い返した。


紫式部の日記には、その夜、渡殿に寝ていた式部を訪ねる者があったと記されている。


戸を叩く物音は朝までずっと続いたが、紫式部は戸を開けなかったが、それは道長であった。

つまり道長は紫式部をなんとかものにしようと、根気よく努力を続けたのである。


二人は自分たちの日記には愛人関係になったとは書いていないが、この頃から紫式部は道長の妾になったと考えられる。


上流貴族は、正妻以外に何人もの妾を持つのが常識の当時では、夫を亡くした女性が時の最高権力者に言い寄られてNoというほうが不自然である。


妾とは、シングルマザーなどを経済的に救い保護するという一面があった制度でもあった。


では一方の正妻・倫子は一体どういう性格の女性で、紫式部のことをどう思っていたのだろうか。


倫子の性格について「栄花物語」は、道長が醍醐天皇の孫にあたる源明子をもう一人の妻としたときの倫子のようすを、次のように記している。


「道長は倫子と、水も漏らさないほど仲睦まじく過ごしていたが、やがて源高明の末の姫君・明子と親しい仲になられた。」


「土御門の姫君・倫子はつらいお気持ちながらも、とても気性の穏やかな方なので、おっとりとなさっている」


倫子は、感情をあまりに表に出さない、おくゆかしい女性だったようである。


しかしそんな倫子も、紫式部と道長が親しくする様子を見たときは違ったと「紫式部日記」には書かれている。


彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産すると、道長はお祝いの儀式を盛大に催した。


誕生五十日目を祝う宴の席で、酔っぱらった道長は紫式部にふざけかかり、着物の袖をつかんで、歌を詠めと迫った。


「いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)のあまり久しき君が御代をば」と紫式部は詠んだ。


紫式部が誕生五十日とかけて「いかにいかが・」と親王の長寿を願うと、道長は「実に上手い」と紫式部の歌を二度口ずさみ、次の返歌を詠んだ。


「あしたづのよはひしあれば君が代の千歳の数も数へ取りてむ」


「葦の水辺にたたずむ鶴のように千年も生きて、親王を見守りたいものだ」


道長はその時の心情を歌に詠むと、彰子にむかってこう話しかける。


「中宮様、どうですか。上手く詠んだでしょう。母上の倫子もきっと良い夫を持ったと思っているだろう」


こう中宮に語りかけた道長はどうやら、酔うと気が大きくなるタイプだったようだ。


紫式部は酔っ払いの戯言だと思って聞いていたが、倫子はうるさいと思ったのか、急に機嫌が悪くなって部屋を出ていってしまった。


さらに「紫式部日記」には倫子から特別の贈り物をもらった時のことが書かれている。


ある年の9月9日の、菊の節句とも言われる重陽の節句の日のことである。


当時は、前夜から菊の花に綿をかぶせておき、朝露で湿った綿で顔や体をぬぐうと若返るといわれていた。


そのためその日に、倫子が「この綿で顔をふいて老化を防ぎなさい」と紫式部に綿を届けたのである。


すると紫式部は「せっかくの菊の露、私は少しだけで結構なので、後は奥様にゆずります。」


「どうぞ千年分も若返ってください」と紫式部は返そうとしたが、思い返して取り止めたと日記に綴っている。


もしも本当に紫式部が倫子に菊の露を返していれば、ひと悶着起こっていたことだろう。


倫子は道長よりも2歳年上なので、紫式部は9歳年下である。


道長を挟んで、妾と正妻が若さを競って対決したと取れなくもないやり取りである。


どちらも才女と言われた女性同士なので、感情を表に出した争いは絶対にしなかったに違いない。


しかし表面に出ない分、紫式部と倫子は、内面に激しい嫉妬を燃えたぎらせたていたのかも知れない。

【紫式部と源倫子】ユーチューブ動画