995年正暦6年4月、京の都を疫病が襲い、路頭には死体が溢れ地獄絵図さながらの光景に、紫式部たちは目をおおったはずである。


平安時代に編さんされた歴史書「本朝世紀」には、天然痘やはしかなどの急性の感染症が京の都に蔓延したことが記録されている。


紫式部たちが、いかに感染症と闘ったかについて詳しく見ていこう。


千年以上前の京都の町では感染症、特に痘そうと呼ばれた天然痘が蔓延して、膨大な死体が巷に溢れた。


流行は、993年正暦4年の秋ごろに九州から広まり、この年に一条天皇も罹患した記録が残っている。


一条天皇はなんとか回復して、995年に年号を正暦から長徳に改めたが、全く効果はなかった。


紫式部はこの翌年に父親の為時とともに越前に下向することになるが、このときはまだ都にいて惨状を目の当たりにしている。


藤原道長はちょうど30歳となり、権大納言の地位についていたが、兄の関白道隆が急死する。


道隆の死因は、過度の飲酒による糖尿病の悪化であった。


道隆の後を受け関白となった道兼は、就任後わずか数日で逝去したため「七日関白」と呼ばれる。


道兼の死因は流行していた感染症の痘そう、つまり天然痘であった。


この時に死んだのは道兼だけではなく、995年の3月から6月の4ヶ月間で中納言以上の公卿11人の内7人が天然痘で死亡している。


そして道長と伊周を含め、たった4人の公卿だけが生き残ったのである。


天然痘はウィルスによって起こる感染症で、まず高熱が出る。


一度は熱が下がるが、まもなく再び発熱して顔や手足に発疹が現れ、水疱となる。


水疱がやがてかさぶたとなって、病気が治ったとしても顔などにぶつぶつの痘痕が残る。


紫式部や清少納言もおそらく天然痘に罹患し、この痘痕があったであろうことから、不美人であったとする説がある。


そして天然痘といえば作家の夏目漱石も罹患して痘痕が顔に残り、ロンドン留学時代に引きこもりになった時期あった。


天然痘の周期的な流行は平安時代以降も続き、明治時代でも死亡率は25%を越えていた。


平安時代末期の鴨長明の「方丈記」には隆暁法印という僧侶の次のような話が綴れている。


感染症で次々と亡くなっていく人々に彼は何かしたいと考え、遺体の額に「阿」という梵字を書いていった。


すると都だけで、遺体は4万2千3百人の数に及んだという。


当時の京都の人口はおよそ10万人と言われているので、約4割強の人が感染症や飢饉などで亡くなったことになる。


平安時代には天然痘以外にも、腸チフス、ジフテリア、赤痢、マラリア、そして麻しんが流行した。


特に麻しんと呼ばれた「はしか」は感染力が強く、大きな被害を出している。


当時の史料で最初にはっきりと麻疹が登場するのは、998年長徳4年のことである。


26歳となった紫式部はちょうどこの年に、藤原宣孝と結婚している。


天然痘が「もがさ」と呼ばれたことから「はしか」は「あかもがさ」と呼ばれた。


天然痘に似ているが、赤い斑点が体に出ることから異なる病気として、区別して「あかもがさ」と呼んだ。


中国では麻疹と言われたが、日本で「はしか」と呼ばれたのは、のどがチクチクして痛くはしかいことから「はしか」と呼ばれたようである。


「日本疾病史」には、平安期のはしか、麻疹の流行が年表化されている。


それによれば、998年を皮切りに、1025年、1077年、1093~94年、1113年、1127年、1163年とおおよそ20年ごとに起きている。


一度はしかを罹患した人は免疫が出来て次にはかかりにくなるため、感染流行はサイクルとなる。


はしかの感染流行と集団免疫のサイクルは、この時期から確認できるのである。


赤染衛門たち女房が中心となって執筆したとされる「栄花物語」にははしかについて詳しく記録されている。


はしかは「下人」つまり使用人は死亡せず、四位以上の貴族、つまり中級以上の貴族の女性たちが犠牲者となったと記している。


下人たちは、普段からいろんな人と接しているので自然に免疫が出来ている。


ところが中級以上の貴族の女性は普段は庶民社会からは隔離されているため、大きな被害を受けたと記述しているのである。


赤染衛門たち女房は、医学が未発達な平安時代にあっても、鋭い観察力で「はしか」を的確に分析している。

ところで左大臣となった道長は、紫式部が結婚した998年長徳4年、32歳のころから体の不調を訴え出している。


このときの病は腰痛とか、邪気の病と記録にあるが、道長はかなり苦しんだようだ。


道長は再三にわたって天皇に内覧の職を辞めたいと申し出たり、出家して本意を遂げたいとまでいっている。


一条天皇は物の怪の仕業によるものらしいから、落ち着くのを待つようにと道長に退官を思いとどまらせている。


道長は西暦1000年長保2年にも、物の怪の病に苦しんでいる。


この時は祈禱や読経が行わ れ、陰陽師・安倍晴明のすすめるまま転居を繰り返し、その甲斐あってか徐々に回復に向かっている。


道長は若い時から病弱で、持病の糖尿病にもずっと苦しめられている。


晴明は道長に食事制限などもおこなっているため、その結果一時的に血糖値などが改善されたと考えられる。


この平安時代は、麻疹、はしかが日本各地で猛威をふるった。


そしてこの病で、おおぜいの貴族たちが亡くなっている


しかし持病の悪化で外出ができなかった道長はずっと家にいたため、はしかにさらされる こともなく、救われている。


やはり最高権力者になるような人物は、人並み外れた強運も持ち合わせているようである。


1001年長保3年、紫式部は結婚してわずか三年で夫藤原宣孝を疫病で喪う。


そして宣孝の死をきっかけに「源氏物語」の執筆に本格的に取り組むのである。


しかし紫式部は「源氏物語」に、疫病が蔓延した悲惨さを、あえて描かなかった。


それは彼女が、身近な多く人々を喪い、あまりにその体験が悲惨だったらからだと思えてならない。


我々の生活もコロナウィルスの感染症で、大きな影響を受けた。


種類は違っても感染症に我々人類が影響を受けたのは、平安時代も現代も同じなのかも知れない。

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