高階貴子は藤原道隆との娘・定子が一条天皇の中宮となったが、最期は一家が没落している。


高階貴子の最期を詳しく見ていこう。


高階貴子の生年は不詳だが、高階成忠の娘として生まれている。


貴子は二十歳のころに父のすすめで、円融天皇の後宮に出仕している。


和歌のみならず漢文にも才能を発揮した貴子は、「本格的な文筆家で、少々の男性たちよりも優れている」と評判となった。


そして女官のナンバースリーの地位である掌侍に出世した貴子は、高階の高をとって「高内侍」と呼ばれた。


そんな容姿端麗の才女を、若い貴族たちがほっておくわけもなく、二十歳のころの道隆も貴子にたびたび恋文を送った。


小倉百人一首の有名な次の歌は、そんな道隆への貴子の返歌である。


忘れじの行末まではかたければ

今日を限りの命ともがな


意味は「あなたはわたしのことをいつまでも忘れはしないよ、と約束してくださった。」


「けれども、恋はうつろいやすく遠い行末まで、心変わりしないとはかぎらない。」


「いっそのこと、いまこの愛のことばを伺ったしあわせのただなかで、今日を限りとして死んでしまいたい」という内容である。


貴子の、知性的でありながも情熱的な性格が現れた歌である。


貴子の父・成忠は、のちに一条天皇となる懐仁親王の家庭教師を勤めた碩学であったが、身分は高くない中流貴族であった。


道隆には妻と長男の道頼もいたが、道隆は貴子と大恋愛の末に結ばれている。


貴子は道隆との間に、伊周、隆家、隆円、定子、原子、頼子、四の君の三男四女の7人をたて続けにもうけている。


そのため貴子が道隆の正妻となり、伊周が嫡男となった。


そして身分の高くない高階家の人々が出世を遂げたが、それが公卿たちの反感をかうことになる。


ところで、道隆には若く美しい対御方という妾がいた。


彼女は最初は父・兼家の妾であったが藤原綏子を産んだ。


しかし兼家が死ぬと長男・道隆の妾となり、一女を産んでいる。


対御方が兼家との間に生んだ綏子も、やがて母親似の美しく妖艶な女性に育ち、居貞親王(のちの三条天皇)に嫁ぐ。


しかし綏子は若い貴族と不倫を重ねて身籠る。


道長は綏子の妊娠を確かめるために彼女の胸を揉むと、乳が道長の顔に飛び散ったという話が「大鏡」に書かれている。


それはともかく、長女の定子が一条天皇のもとに入内して中宮となると、中関白家と呼ばれた道隆の一家は絶頂期を迎える。

しかし道隆の出世とともに、身分の高くない高階家の一族が勢力を伸ばすことを嫌った公卿たちも多かった。


貴子は一条天皇が文学好きなのを知ると、定子のもとに清少納言や赤染衛門などの優れた女房たちを揃えた。


確かに貴子は才女ではあったが、親として子どもたち、特に嫡男・伊周に関しては猫可愛がりをしたようである。


伊周は、眉目秀麗で、生意気だが良家のお坊ちゃんタイプで、女房たちにももてたようである。


清少納言は、貴子と道隆が伊周を連れて定子のもとにたびたび訪れる様子を「枕草子」に記している。


清少納言は年下の伊周から気のある素振りを見せられ、喜び感激している。


貧しい受領階級の娘として育った清少納言は、夢のような宮中での生活がずっと続いて欲しいとも綴っている。


兼家が逝去して道隆が関白となると、まだ21歳の伊周が内大臣に就任する。


しかし中関白家の栄華は、それからわずか数年で終焉を迎えるのである。


飲酒により持病の糖尿病を悪化させた道隆は、重体に陥る。


道隆は一条天皇に病の自分に代わり、嫡男・伊周を後継者にと願い出る。


そのため一条天皇は、道隆の病の間は、伊周を関白に次ぐ内覧にするという宣旨を下そうとした。


ところが貴子の兄・高階信順は陰謀を巡らせて、宣旨の「病間」を「病替」に書き替えた。


これだと、道隆の病の間、ではなく、病に替えて、という事で、ずっと伊周が内覧を続けることが可能になる。


やがて道隆に続いて藤原道兼も亡くなると、伊周は後継者として関白になることを朝廷に願い出た。


しかしこの高階家の謀略を知った一条天皇と東三条院詮子が、伊周の関白就任を許さなかった。


結局、東三条院の裁定で、道長が内覧となって新政権を発足させる。


宮中では内大臣の伊周を飛び越えて、道長が右大臣となって上座にすわった。


すると今まで下に見ていた8歳年上の叔父・道長に見下されることが、伊周には耐えられなかった。


わがままに育った伊周は、ついに宮中で多くの人々がいる前で道長を罵って、その鬱憤をぶちまけている。


貴子に甘やかされて育てられた伊周は、我慢することを知らない青年に育ったのである。


この時点では、まだ一条天皇の中宮は伊周の妹・定子であった。


もしも定子が皇子を生めば、まだ伊周が関白になれるチャンスは充分に残されていた。


貴子や定子たちも伊周をなだめたであろうが、彼にはじっと耐えることが出来なかった。


それが関白の嫡男として甘やかされて育った伊周と、五男坊として期待もかけられずに苦労して育った道長との決定的な違いであった。


伊周は弟の隆家と、なんと花山法皇に矢を射るという不敬事件を起こしてしまうのである。


当時の中関白家の人々には、すでに花山法皇や一条天皇など皇室をもあなどるような気質が蔓延していた。


伊周と隆家には大宰府と出雲への配流という罪が言い渡されるが、実際には天皇や道長の温情で、播磨と丹波に止め置かれている。


ところが貴子が病だと知った伊周は流罪先の播磨を抜け出して、都に舞い戻るのである。


伊周は中宮定子のもとに隠れていたが、逃げ切れずに検非違使に発見されている。


このとき伊周は出家姿の母・高階貴子に付き添われて出頭した。


今度は本当に大宰府に流罪されることになった伊周に、貴子は付き添うといって聞かなかった。


一条天皇の命で伊周と引き離された高階貴子は、それからまもなく逝去している。


彼女の生きざまを見ていると、才女であっても「子育て」は別物なのかも知れない。


中宮定子はあまりのショックに、一条天皇の子を宿しながら出家してしまう。


一条天皇に呼び戻された定子はこの後、皇女と皇子を出産するが、再び中関白家の春を呼び寄せることは出来なかった。


清少納言は「枕草子」に、中関白家の華やかな時代については多くを記したが、その後の悲劇については一言も触れてはいない。


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