なぜ夫と子供たちを見捨てたのか、清少納言と子供たちのその後を詳しく見ていこう。
清少納言は966年康保3年ごろ、受領階級の中流貴族・清原元輔の娘として生まれた。
彼女が生まれた時、父・元輔は60歳近い年齢で、長兄の為成とは40歳近く年が離れた最晩年の子であった。
清少納言には為成、致信、戒秀の三人の兄と、姉が一人いた。
父親の元輔は三十六歌仙にも選ばれた優れた歌人であったが、受領としては長くうだつが上がらなかった。
家庭は貧しかったが、彼女は幼い頃から父親に和歌をはじめ、漢文など学問だけはしっかりと学んでいる。
父親の元輔がやっと受領として周防守となって赴任したのは、なんと66歳の時であった。
そのため清少納言は幼い頃から貧しい生活を強いられ、上流社会を夢見ながら育っている。
彼女は15歳の頃に一歳年上の中流貴族・橘則光と結婚している。
そして清少納言は則光との間に、長男の則長をはじめ、二男一女をもうけている。
夫の則光は、夜中に忍び込んだ三人の盗賊を斬り殺したという逸話を持つ剛勇な男であった。
しかし則光は真面目だが、出世コースからは見放され、清少納言はまたも貧しい生活を強いられることになる。
さらに則光は文学的センスについては、まるで持ち合わせていない人物であった。
先祖には「万葉集」に多くの和歌が収められた者もいたが、則光は歌心が全くなかった。
清少納言は藤原斉信と親しい関係にあったが、互いに教養の深さに惹かれあい、性別を超えて交際していた。
則光は斉信に仕えていたこともあり、たびたび彼から妻の居場所を聞かれた。
そこで「斉信に教えてよいか」という手紙を清少納言に送ったのである。
対して彼女は、ワカメの切れ端を包んで送りつけた。
以前、則光がワカメをほおばって斉信への返事をごまかしたと聞いたので「今回も私の居場所は教えないでほしい」とユーモアを交えて伝えたつもりだった。
ところが則光は、「変なものを包んで送ってきて、何かの間違いか」と彼女をまったく理解してくれない。
そこで清少納言は次に、それを説明する歌を書いて彼に差し出したら「そんな歌なんか見ない」と腹を立ててしまったという。
則光はこんな文学的センスのない男だったので、清少納言は愛想を尽かしたのだろう。
中流貴族として苦労した父親の元輔が赴任先の肥後で客死すると、同じ中流貴族の夫への不満はさらに膨れ上がった。
満たされない思いを埋めようと、彼女は986年寛和2年、貴族たちが集う法華八講に参加する。
清少納言は、中納言・藤原義懐がかけた一言に対して、「法華経」の故事を引いて即答する。
そのため彼女の頭の回転のよさや学識が、列席した貴族たちの間で評判となった。
やがて関白藤原道隆から清少納言のもとに、一条天皇の中宮定子の女房として仕えないかという話が舞い込む。
もしも彼女が、女房として宮中に上がるなら、夫や子供たちとは離ればなれの生活となる。
家庭や子供たちのことをいろいろ思い悩んだ清少納言だが、幼い頃から憧れてきた宮中への思いは捨てがたかった。
ついに決意を固めた清少納言は出仕する際に、息子の則長を則光に渡して10年連れ添った彼とは離婚している。
彼女が宮中へ上がったのは993年正暦4年の冬、28歳の頃だとされている。
まだ女性の社会進出が珍しい時代、清少納言に夫と子供を見捨てる以外、選択肢はなかったのかも知れない。
しかし彼女はその後も則光とは互いに「兄」「妹」と呼び合う友達のような関係を続けている。
宮中に上がった清少納言にとっては、見るもの聞くものすべてが新しい世界であった。
彼女は水を得た魚のように、いきいきと創作活動にも精を出した。
清少納言は、明るく開放的な一条天皇の中宮・定子のもとで、機転のきく才能を存分に発揮し、宮中で人気を博していく。
彼女は「枕草子」に、「人には一番に気に入られたい。二番や三番になるなら、嫌われたほうがましだ」と書いている。
のちに紫式部が宮中へ出仕して、回りの目を気にしながら、謙虚に仕えたのとは対照的である。
彼女は「紫式部日記」に「女は穏やかで、心もちもゆったりと落ち着いてこそ、品位も風情も感じられる」と綴っている。
対照的な二人の生き方だが、現代社会の女性の働き方にも通じる課題であるだけに興味深い。
中宮定子のもとには文化的サロンが形成され、一条天皇をはじめ多くの貴族が集まった。
清少納言は宮中という新しい世界で、いきいきと個性と才能を発揮した。
彼女はその夢のような華麗な世界を「枕草子」に余すところなく書き留めている。
清少納言は同じく「枕草子」に、「1000年もこのままであってほしい」と記している。
彼女が書きためていたエッセイを、源経房が人目に触れさせたのがきっかけで、「枕草子」は貴族の間で評判となる。
彼女はたちまち才能ある女房として、超有名人となった。
しかし清少納言が過ごした、その夢のような世界もあまり長くは続かなかった。
彼女が出仕してわずか2年後、定子の父親で関白の藤原道隆が、糖尿病の悪化でまだ43歳の若さで急死するのである。
道隆の後をうけて関白には弟の道兼が就任するが、疫病のためにすぐに逝去する。
そのため後継者を巡っては、道隆の嫡男・伊周と、弟の道長の間で争われた。
まだ若い伊周は花山法皇に矢を射るという失態を演じてしまう。
そのため一条天皇の母・東三条院詮子の裁定で道長が後継者に決定し、伊周は大宰府へ左遷となる。
父親に続いて兄という後ろ楯を失くした定子は一条天皇の子を身籠りながら、ショックのあまり出家の道を選んでしまう。
清少納言もこの事件には大きな衝撃を受けたはずだが、なぜか「枕草子」には一切事件については触れられていない。
やがて彼女は、定子に代わって中宮となった彰子からの出仕の話を断って宮中を去っている。
年齢が親子ほど離れた年上の藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦を生んでいた清少納言は、夫とともに摂津に赴任している。
やがて夫に先立たれた清少納言は、出家して、都に住む次兄の清原致信を頼って同居している。
ところが、この兄・致信は、「清少納言の最期」の動画で詳しく触れたように、いわくつきの人物であった。
致信は、清少納言の目の前で報復のために射殺されるのである。
彼女も危うく殺されかけたが、女性であったためになんとか命だけは救われている。
その後実家も追われた清少納言は、各地を放浪したと言われている。
彼女の子供たちについては、記録は数少ないが、長男の則長と、藤原棟世との娘・小馬命婦の消息が残されている。
長男の則長の和歌は、「後拾遺和歌集」、「新続古今和歌集」という歌集に和歌が収録されており、歌人としても活躍した人物である。
則長の子の則季は、「枕草子」を後世に伝えた人物として名を残している。
また清少納言の娘・小馬命婦は、再婚相手の藤原棟世との間に生まれた子供であった。
小馬命婦は紫式部の娘である大弐三位に比べると、残っている情報が少ない。
彼女は成長してからは、母の清少納言と同様に宮廷に出仕をしており、道長の娘・彰子に仕えている。
近い時代に「小馬命婦」という同名の女性が存在していたため、清少納言の娘の方は「上東門院小馬命婦」と呼ばれている。
そして清少納言のその後については全国各地に伝説が残されているが、その多くが落はくして老醜をさらしたという類いのものである。
息子や娘たちが健在であったことから、それなりの援助を得て、彼女は老後を暮らしたと思われる。
清少納言は、1025年万寿2年頃に亡くなったとする説が有力である。
宮中での活躍があまりに華やかであったために、彼女の老後が比較されて落はくしたと伝わったものと思われるのである。