藤原兼家は三男で藤原道長は五男だが、ともに藤原氏九条流といわれる家系を引き継いで栄えさせた。


それは兼家が道長たち子息に、一家が栄えるための秘策を伝授したためだといわれている。


兼家が道長たちに、一体何を引き継いだのかを詳しく見ていこう。


藤原兼家は990年永祚2年、62歳で逝去した。


兼家は藤原師輔の三男として生まれたが、長男の伊尹が若くして病死すると、次兄の兼通と関白の地位を巡って争った。


そのため結果的には、兄弟で争うことが九条流を栄えさせることになった。


兼家は自らの経験から、兄弟が争うことは、一家にとっては悪いことではなく、むしろそれを煽っていた節がある。


三男であった兼家は、兄弟であろうと、年齢に関係なく実力あるものが後を引き継ぐべきと考えていた。


兼家は兄の兼通が関白であった6年間は、全く官位が昇進していない。


昇進しないどころか、ややもすれば兼通は帝に讒言して都から兼家を追放しようとしている。


「栄華物語」には「兼通は兼家を遠い九州にでもうつしたいと思っておられるのだが、罪過がないのでそれが出来ないのであ る」と記している。


兄弟同士が犬猿の仲で、宿敵同士であったのが藤原九条流の伝統でもあった。


そのため兼家は道隆、道兼、道長の三人がわざともめるような画策を実行している。


三人の中で誰が一番後継者ににふさわしいかを、兼家は見定めていた。


兼家は花山天皇を騙して出家させ退位させる時は、道兼と共謀している。


そして兼家は道兼に、関白の地位をちらつかせて共謀させたと言われている。


そのため兼家が臨終の前に、道隆を後継者に指名すると、道兼は兼家の葬儀にも出席しなかった。


兼家は自分の子供であっても、全くお構い無しに騙して、平気で悪事に協力させている。


政権を維持していくためには、親子であろうと非情に徹するべきだということを兼家は熟知していた。


兼家は、藤原九条流を永遠に栄えさせる政権維持マニュアルのようなものをすでに編み出していた。


そして道隆や道長たちは兼家の行動を間近で見ながら、一家を繁栄させるその方法を学んだのである。


兼家が逝去すると、道長たちは父親から学んだ方法で政治の実権を握っていく。


そして道隆、道兼、道長と続いた藤原九条流は、道長の時にピークを迎える。


道長の死後、後を継いだ頼通と教通はうまく後継者に引き継ぐことが出来なかった。


そして藤原九条流の摂関政治はまもなく、院政に取って代わられるのである。


ではなぜ、兼家の時にはうまく作用した手法が、機能しなくなったのだろうか。


最近の研究では、その一番大きな原因が糖尿病だということがわかってきている。


平安時代は、藤原氏に限らず貴族たちは近親婚を繰り返した。


そのため藤原九条流と言われる兼家の一家には、糖尿病が多かった。


糖尿病には1型と2型がある。


1型は症状が急激に現れ、インスリンの投与が必要となる。


2型は糖尿病になりやすい遺伝的な素因を持った人が成人になって発病するケースが多い。


道長の場合、2型糖尿病で、わかっているだけでもかれの叔父の伊尹、長兄の道隆、そして道隆の嫡男・伊周も糖尿病であった。


つまり、兼家から後を引き継いだ男たちが、次々と糖尿病によって倒れていったのである。


藤原実資は、晩年に道長と道ですれ違ったのに、気付かなかった道長が「よく目が見えていないのでは」と日記に記している。


藤原氏九条流には、他にも糖尿病で苦しんでいた者が多くいたと思われる。


藤原兼家は、自分が悪役となって、藤原氏九条流を栄えさせた。


そして道隆や道長たち子息には、完璧とも思われる政権維持マニュアルを伝授した。


しかし藤原氏の摂関政治を終焉させたのも、兼家も持ち伝えたであろう2型糖尿病の遺伝子だったというのはなんとも皮肉である。


権力者も病には勝てない、という一番の例なのかも知れない。