なぜ晴明は、道長からそれだけの信頼を獲得することが出来たのだろうか。
安倍晴明の生涯と最期を詳しく見ていこう。
安倍晴明は921年延喜21年に生まれたといわれるが生誕地には諸説あるが、大阪の阿倍野というのが有力なようである。
晴明は当時の最先端の学問であった天文道、陰陽道などに精通した陰陽師の賀茂忠行とその子息・保憲に幼少期に入門している。
そして晴明は陰陽道を志したが、忠行に優れた資質を見出だされ、多くの術を伝授されている。
その後も晴明は天文学などを学び、正式な陰陽師となれたのは40歳を過ぎてからであった。
平安時代に活躍した陰陽師は、中務省という役所に属した公務員のことで、彼らは陰陽道を用いて天文や暦、時報などを担当した。
陰陽師は現代的に言えばインテリジェンス・オフィサーで、公安調査庁の役人ということになる。
つまり安倍晴明は、現代的に言えば破壊活動の防止やテロ対策に取り組む公務員だった。
なお、 陰陽道は中国の陰陽五行思想に基づき、道教や密教などの占星術、さらに神道を取り込んで日本で独自に発展させた呪術のことである。
当時の人々は 非常に信心深く縁起を重視したため、陰陽道がもてはやされた。
そのため陰陽道によって吉凶の判断、厄払いや呪詛などが可能な陰陽師は、天皇や貴族たちから頼りにされる存在であった。
現代的に考えれば、陰陽道などは迷信めいた非科学的な学問である。
しかし科学も医学も全く発達していない当時としては、中国から輸入された最新の学問だったのである。
特に平安時代の中期には、毎年のように天然痘やはしかなどの疫病が猛威を振るった。
平安時代の疫病による致死率は、30%以上で、3人に1人が亡くなった。
さらに感染症に関する知識が全くなく、治療法を知らない人々は、陰陽道にすがりついたのである。
それまでの日本の古代では病気は鬼神によって引き起こされると考えられ、神々の怒りとたたりをやわらげることを病気治療の主眼としていた。
それが平安時代になると、陰陽道などによって病気は「もののけ」という正体不明の現象によっておこると信じられるようになる。
「もののけ」 というのは説明不可能な怪奇現象なのだが、貴族たちはこの「もののけ」の存在をひたすら信じ、その出現をひどく恐れた。
病いの原因は死霊、生霊、怨霊をはじめ、妖怪や天狗などおぞましいものによってもたらされると信じられた。
特に貴族たちは病いの治療法として「もののけ」をとりのぞくことに専念した。
平安時代以前は、病気治療といえば、まずは方士と呼ばれる専門家による「もののけ」退散の加持祈禱がおこなわれた。
方士とは天文学や暦学、 方位・方角、風水などを基にして祈禱やト占などをおこなう専門家であり道士とも呼ばれた。
かれらは貴族の心の中に深く食い込んで、しばしば邸宅に呼ばれて「病魔退散」と「悪疫払い」の祈禱をおこなった。
「病魔退散」の祈禱といっても、病気を治療 するための儀式ではなく、戸口までやってきた病魔を中へはいらせないよう追い立てる祈禱であった。
病気の原因、診断、治療など、一切わからなかった時代の人びとにとって病気にかからぬことは切実な願いであった。
我々がコロナ感染で苦しめられた時の経験と少し似ているのかも知れない。
そのため方士らが頼りにされ、もてはやされたのである。
古代、「魔除け」の行事は巫女たちによっておこなわれていたが、平安期には陰陽道が盛んになった。
そして「病魔退散」と「悪疫払い」の役目はもっぱら陰陽師が主役を演ずるようになった。
陰陽師が方士や巫女たちとちがったのはかれらが護摩を焚いたからである。
護摩には一切の悪業、悪疫の根源を焼きほろぼす法力があると信じられた。
そのため怪しげな方士の中にはちゃっかり陰陽師に鞍替えした者もいたかもしれない。
藤原道長が安倍晴明を重く用いたのも、呪詛と共に病気の平癒のためであった。
藤原氏には2型糖尿病の遺伝子を持つものが多く、道隆や道長は晩年に糖尿病に苦しんだ。
そのため道長も安倍晴明を重用したという記録が残されている。
まず陰陽師が護摩を焚くには、本尊を安置する祈壇と護摩壇をつくった。
祈壇には菓子や果実など供物をそなえ、護摩壇では祈願文をかいた木板を燃やした。
陰陽師は、護摩を焚きながら声をからして霊験あらたかな病い除けの呪文を唱える。
病人とその身内は陰陽師のうしろに座り、病い退散をしきりに祈った。
この際の呪術は型どおりにすると効果がある。
逆に手順を誤ると効きめが少ないので、唱える呪文は正確さが要求され、一言でもまちがえるとたちまち効力を失うとされた。
そこで呪術の専門家たる陰陽師の需要がたかまったのである。
陰陽道とは古代中国の殷王朝のころから発達した天体の運行や方位をみることにより国や個人の吉凶を占う手法である。
いわゆる陰陽五行説にもとづく精緻な易学 であって、当時の人びとはこれを日常生活から国家行事にいたるまで、あらゆる思考と 行動の指針とした。
貴族たちの欲望はとめどもなくひろがるばかりだから、それをかな えるため平安期の朝廷では多彩な祈願が行事としておこなわれた。
なかでも病気にかからぬよう祈る儀式は年中行事に組み込まれ、ますます数を増した。
正月は、元旦の屠蘇の儀式にはじまるが、これは身体の養生を願う行事である。
正月の7日に七草粥を食べたりするのもその名残である。
当時の貴族たちは縁起をかついで災厄や疫病を避けるために、ひたすら信じ祈っていたのである。
庶民もまた迷信にとらわれ、病苦から逃れようと腐心した。
僧侶や市井の祈禱師にすがり、その法力によって「もののけ」をこらしめ、疫鬼を退散させようとしたのである。
多少怪しげな祈禱師であろうとも、庶民はかれらを頼りにして病気にならぬよう祈禱をしてもらった。
このように平安期には病気を調伏するため、あまたの修法、読経がいたるところでお こなわれた。
平安時代ほど病気治療を加持祈禱に頼った時代はほかにない。
晴明は村上天皇に占いを命じられたのを皮切りに、以後代々の天皇にも認められ儀式を執り行っている。
安倍晴明は、このような時代を背景にして、藤原道長から絶大な信頼を勝ち得たのである。
晴明は72歳の時に、一条天皇の病をみそぎによって回復させた記録が残っている。
そして晴明の2人の息子が天文博士や陰陽助に任じられるなど、安倍氏は師である賀茂氏に並ぶほどの名家となった。
そして、安倍晴明は1005年(寛弘2年)に85歳で死亡している。
晴明の死因は不明だが、彼の逝去後に住居は現在の京都市上京区にある晴明神社となり、彼の神格化が急速に進んで現在に至っている。
【安倍晴明の最期】ユーチューブ動画