しかし道長の正妻は倫子だ、と言われている。
血統的にはより高貴な明子を差し置いて、倫子はなぜ道長の正妻の座を射止めたのだろうか。
倫子と明子のその後を詳しく見ていこう。
「拾遺和歌集」には、明子の母である愛宮が詠んだ、次のような内容の和歌がのっている。
長年こちらに通っていた鶴が、今度は一体、どこへ行ってしまったのだろうか。
愛宮は源高明が没してからは、明子と一緒に住んでいたといわれている。
歌の内容は、長年明子のもとに通っていた鶴(道長)が、最近は他(源倫子)のところへ行ってしまった、と悔恨の情を詠った和歌である。
つまり道長は倫子と結婚する以前から、明子のもとに通っていたことを示す和歌である。
詠み人の愛宮が、実際に明子の母なのか、それとも明子本人なのかは、母親の没年が不明なためにわからない。
しかし和歌の詞書には「道長が倫子と結婚したため」とはっきと記されている。
そのため道長は倫子と結婚する前から明子のもとに通っていたことは間違いないようである。
つまり明子は先に道長と結婚して正妻であったが、後から結婚した倫子にどうも正妻の座を奪われたと考えられる。
平安時代は、妻が複数いる場合に正妻を決めるルールがまだはっきりと確立されていなかった。
そのため先に結婚して正妻となった女性が、のちに結婚した女性に正妻の座を奪われるケースも往々にしてあった。
道長の兄・藤原道綱の母も、兼家と結婚した当初は正妻であった。
ところが彼女は道綱しか子供を生まなかったが、時姫が多くの子を生んだためにのちに正妻となっている。
道綱の母は「蜻蛉日記」に、妾となった女性の恨み辛みを赤裸々に綴っている。
道綱の母と時姫の場合も、父親の地位はわずかだが道綱の母の方が上であった。
源明子は醍醐天皇の孫だが、倫子は宇多天皇のひ孫で、血統的には明子の方が高い。
また明子も倫子と同じく、6人の子供をもうけている。
ドラマでは明子は、父・源高明を「安和の変」で陥れた藤原兼家を恨んで呪詛している。
安和の変は、969年に兼家らによる他氏排斥で、源満仲らの謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた事件である。
高明は流罪となったがその後都へ戻り、983年天元5年に逝去している。
当時は怨霊信仰が信じられていたため、一条天皇の母・東三条院詮子は高明の怨霊を避けるために明子を引き取って擁護している。
明子が、ドラマのように兼家を実際に呪詛したのかどうかは不明である。
しかし本当に倫子に正妻の座を奪われたのであれば、明子は倫子をこそ恨んだと考えられる。
それでも東三条院が存命中は、どちらかと言えば明子が倫子よりも優遇されていた。
しかし東三条院は若い時から病弱で、40歳の誕生日を迎えた頃には衰弱していた。
そのため土御門殿で東三条院の生誕を祝い、病の回復を願う催しが一条天皇も臨席して開催された。
この時、明子の長子・頼宗と倫子の長子・頼通がともに子供舞を舞ったのは有名な話である。
一条天皇が、明子の子息・頼宗の舞があまりに素晴らしいので、頼宗の舞の師匠を従五位下に叙した。
これは普段から明子の子供たちを可愛がっていた東三条院の指示であった。
これに立腹した倫子は道長に詰め寄り、道長は宴の途中で退席するというハプニングが起こっている。
結局のちに倫子の子息・頼通の舞の師匠も同じ従五位下に叙せられ、事なきを得たという。
東三条院詮子はこの三ヶ月後に逝去した。
東三条院亡き後は、明子と倫子の子供たちの待遇は、目に見えて開いていく。
なぜ倫子は、明子を差し置いて正妻の座を射止めることが出来たのだろうか。
実は倫子よりも高貴な血筋を持つ明子が、正妻になれなかった原因には大きく三つの理由があると考えられる。
その一つ目の理由が、倫子の父親・源雅信が長く左大臣を務め、一上として尊敬を集めていたからである。
一方の明子の父・源高明はかつては左大臣であったが、左遷されその後に都へ戻されたが、983年天元5年に失意のうちに逝去している。
雅信は道長に、広大な土御門殿を与えて倫子といっしょに住まわせ、自分たちは一条殿に退いている。
道長は五男で、経済的にはあまり恵まれてはいなかった。
しかし道長は姑の雅信から莫大な経済的援助を受けたため、倫子を正妻の座に引き上げたのである。
そして二つ目の理由が、倫子が結婚してすぐに彰子を生んだからである。
摂関政治で最も重要なことは、「后がね」といわれ、美しくて丈夫な后になれる娘が誕生するかどうかである。
倫子は987年永延元年12月に道長と結婚すると、その翌年には早くも美しく丈夫な女の子・彰子を生んでいる。
一方の源明子がはじめての女の子・寛子を生んだのは、それから11年後のことである。
道長は彰子を一条天皇の中宮にすることで、最高権力者の地位を確立した。
つまり御堂関白家といわれる道長の家系の将来は、倫子と彰子によって開かれたと言っても過言ではない。
そのため道長は、倫子を正妻へと祭り上げたのである。
そして三つ目の理由で、これが最大の理由と考えられるが、倫子の才能である。
当時、貴族の女性たちは十二単を着て深窓で生活したため、あまり屋外に出歩くことはなかった。
ところが倫子は常に道長と行動を共にしたことが道長の日記「御堂関白記」に記録されている。
999年長保元年11月、従三位に叙せられた藤原彰子は、12歳で入内する。
この時、彰子には50人以上の童女や女房たちが付き従ったという。
倫子は道長と土御門殿から内裏へいっしょに行って、まだ幼い中宮彰子の面倒をよくみている。
「御堂関白記」によれば、倫子は月に数度も道長と共に参内している。
以後道長は倫子の娘たちを次々と入内させ、「一家三立后」を成し遂げる。
ここまで完全に天皇家の血筋を親戚に取り込んだ政治家は、日本史上で藤原道長ただひとりである。
この前代未聞の快挙を実現させた影の立役者こそ、源倫子に他ならない。
倫子は、藤原道長を最高権力者に押し上げる裏方にふさわしい才能と実力を持った女性だったのである。
表面的には、倫子は明子の正妻の座を奪い取ったように見える。
しかし倫子がいなければ、藤原道長はとても最高権力者とはなれなかった。
そのため明子も、正妻の座を奪い合うのではなく、倫子が正妻の座につくことを認めたのではないだろうか。
源明子と源倫子は、共に当時としては異例の80代、90代という長寿をまっとうしている。
そして倫子は、明子をはじめ周囲を納得させる正妻としての実力を持ち合わせていた優れた女性だったのである。