関白道隆の長女定子が一条天皇の中宮となり、道隆の中関白家は我が世の春を迎える。
しかし日頃の飲酒が祟り道隆が43歳の若さで没すると、中関白家は一気に凋落する。
藤原道隆のその後と最期を詳しく見ていこう。
藤原道隆は953年天曆7年に兼家と時姫の長男として生まれた。
道隆は若い時から容姿端麗で、宮中の女官たちには絶大な人気があった。
二十歳の時に道隆は、天皇の内侍を務める才女・高階貴子を見初めて恋文を送っている。
貴子の父・高階成忠は当初は二人の結婚に反対であったが、ある日、娘のところから帰っていく道隆の後ろ姿を見た。
成忠は道隆の後ろ姿が、いかにも優雅で、将来大臣になる器だと直感して二人の結婚を許したという。
貴子は漢学の素養や歌才を見込まれて天皇の内侍となった女性で、高階の高をとって「高内侍」と呼ばれていた才色兼備の女性である。
道隆は貴子との間に伊周、隆家、隆円、定子、原子、頼子、四の君の三男四女の7人の子供をもうけている。
子供たちは道隆と貴子に似て、皆美男美女であったという。
道隆の父・兼家は、花山天皇を騙して退位させて一条天皇を即位させ、986年寛和2年、かねてからの念願であった摂政に58歳で就任している。
兼家の後釜を狙う道隆と道兼の兄弟は、水面下で激しく競いあった。
兼家が東三条殿新築を祝った宴で、道兼は我が家をアピールしようと、まだ幼い長男福足君の舞を披露しようとした。
ところが福足君は舞台の上で突然に「踊るのはいやだ」と駄々をこねて暴れだし、兼家はじめ一堂は水をうったように静まった。
する長兄の道隆が舞台に上がって、福足君を抱きながら、見事な舞を披露する。
道兼はいいところなく、兄に一本とられて後継者レースは道隆がはるかにリードすることになる。
兼家は道隆や道長らの子息たちを強引に昇進させて公卿たちを驚かせ、五年後には自ら関白に就任している。
しかし病となった兼家は、関白を道隆に譲り引退し、逝去する。
「古事談」などによると、病床の兼家は自分の後継者をどの息子にするかを腹心の藤原在国ら三人の重臣に相談する。
在国は胆力のある三男・道兼をふさわしいとした。
しかし他の二人は「長幼の序」に従って、長男の道隆を推した。
そのため兼家は後継者を道隆に決めたが、兼家の死後にこの話を知った道隆は道兼を推した在国を憎んだ。
道隆は、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪って復讐するという執念深い一面をのぞかせている。
関白となった道隆はまず、まだ二十歳の長男の道頼を参議に押し込んでいる。
さらに次男の伊周を蔵人頭に任じて、中関白家のみが栄える算段をこうじている。
そのため花山天皇の退位などで活躍し、次の関白は自分だと自認していた三男の道兼は反発した。
しかし道隆の生前中に道兼は、手も足も出なかった。
権力者としての道隆は、兄弟に対しても冷徹であったが、外見は容姿端麗であったために、女官たちは見つめられるだけ皆言いなりになったという。
道隆の娘・定子が一条天皇に嫁ぐと、一条天皇に仕えていた清少納言と道隆は面識を持った。
清少納言は「枕草子」に、お酒好きで気さくによくしゃべる道隆の次のような印象を書き残している。
道隆は亡くなる数ヵ月前、娘の原子が三条天皇に嫁いだ際にも、女性達をひとりずつ褒めたという。
そして道隆は酒に酔って一日中冗談ばかり言っていたと記述している。
また「大鏡」にも、藤原道隆が酒豪で明朗な性格であることを伺わせる内容が記載されている。
第66代一条天皇は7歳で即位すると四年後の990年永祚2年、元服し、その直後に14歳の定子が入内している。
すると道隆は中宮には円融上皇の妃藤原遵子がいるにも関わらず、定子を中宮にしようと画策する。
それまでは中宮と皇后は同一人物であったが、無理に皇后職というものを作って遵子をそこへ押し上げる。
そして前例を無視して、公卿たちの反対を押しきって定子を中宮とするのである。
道兼と対立する道隆は、道長に協力を求め、道長を中宮の補佐役である中宮大夫に抜てきしている。
また道隆は中宮定子のもとをたびたび訪ね、清少納言や赤染衛門などの女房たちに愛想を振り撒いている。
そのため中宮定子のもとには一条天皇も頻繁に出入りして、文芸の一代サロンが形成され、「枕草子」もこの中から生まれている。
しかし道隆は「男は上戸」だといって、酒を飲むことを人生最大の楽しみにしたようである。
関白が賀茂詣をするときは、社殿の前で土器に入った酒を3回勧めるのを例としていた。
ところが、道隆が参詣するときは、神社側も心得たもので、大土器で7、8回も酒を勧めた。
そのためいつも、上賀茂神社に参詣する途中で、道隆は早くも酔い潰れてしまった。
そして道隆は、牛車の中で仰向けに倒れて前後不覚になり、いつも眠ってしまった。
ある時同行した道長は、道隆が乗っている車を見ても、兄の姿が見えないことに気づいた。
おかしいなと思いつつも、車は上賀茂神社の前に到着する。
道隆が乗っている車も、神社前に着いたが、道隆は酔って眠ったままで、供の者も遠慮して、道隆を起こすことができないでいた。
そのため道長が道隆を揺り動かすと、道隆はパッと飛び起きてくしで髪を直して、何事もなかったように参詣したという。
大酒は飲んだが、酔いがさめるのも早かったようである。
藤原道隆の大酒飲み振りは「大鏡」や「枕草子」にも記載されている。
道隆はそれらによると「陽気な酒飲み」だったようである。
道隆は元々軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、酔っ払って人前で烏帽子を外したことが綴られている。
しかし道隆が飲んでいた量は並の酒量ではなく、それが健康に悪影響しないはずが無かった。
また史書には道隆は「飲水の病(糖尿病)」を患っていたと明記されている。
藤原氏には糖尿病の者が多く、道長もこの病気に苦しめられている。
道隆は病に伏し死期を悟ったのか、995年長徳元年3月、一条天皇に請うて嫡子の内大臣伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとした。
しかし、天皇からは病中の内覧のみが許され、伊周に関白の位を譲る事は許されなかった。
病床の道隆は先に死んだ友達と、あの世でまた酒が飲めると語っている。
逝去の数日前に関白を辞した道隆は、再び伊周の関白就任を奏上したが叶わなかった。
藤原道隆は最期に出家し逝去している。享年43であった。
死後道隆の願いは叶わず、関白となった道兼は、やっと自分の番が回ってきたと喜んだ。
しかし当時は天然痘が大流行しており、道兼もすでに罹患していた。
そのため道兼は関白に就任してわずか数日で死去したため「七日関白」と言われている。
そして一条天皇の母・詮子に推された五男坊の藤原道長が脚光を浴び、伊周たち中関白家は没落することになる。
伊周と隆家は、ちょうど紫式部が父・為時に随行して受領として越前に赴く頃、大宰府へ配流されている。
そして以後、中関白家の急速な衰退が始まり、二度と中関白家に春が訪れることはなかった。