ドラマで紫式部は、さわという架空の女性と出会い、意気投合して親友となっている。


実際に紫式部にはさわと同じような親友がいたのだが、彼女とは悲しい結末を迎えている。


紫式部とさわのその後を詳しく見ていこう。


紫式部は幼少期から父の藤原為時に教育を受け、当時の女子は習わない漢文などもマスターしている。


それだけに彼女は、女性を覚めた目で見るちょっと「痛い女」、世間とチョッとズレた女性に育っている。


成人してからの紫式部は、清少納言のことを日記で「もったいぶった生意気な女性」だと批判している。


また和泉式部については「歌は上手いけど、常識がない」と手厳しい。


そのため紫式部には、なかなか忌憚なく心を開いて話し合える友達が出来なかったようである。


ドラマでは父為時の亡くなった女性の娘として、さわが登場する。


紫式部は「紫式部集」と呼ばれる、自家編纂の歌集を残しているが、そこにさわと考えられる人物が登場する。


「紫式部集」の前半には、紫式部が娘時代に作った歌の数々が収められている。


紫式部は幼い頃に母を亡くし、少女時代にも姉を亡くしたといわれる。


成人してからは仲がよかった弟・惟規を、そして結婚して数年で夫の宣孝を病で彼女は亡くしている。


そのため「紫式部集」の第一首の詞書に紫式部は次のような前書きを書いている。


「長く会っていなかった古い友人と再会でき たのに、わずかに会っただけで、まるで月と先を争うように、その人は姿を消してし まった」と。


そして、このときの気持ちを彼女は歌にしたためている。


めぐりあひて 見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影


  巡りあって見えたのはその人だったかどうか。見分けもつかないまま雲隠れした月との出会いのようであった。


幼少期から多くの別れを経験した紫式部は、「紫式部集」をしんみりとした歌から始めるのである。

「紫式部集」には和歌と簡単なの詞書しか書かれていないために、誰に宛てた歌なのかわからないことも多い。


しかし中には、はっきりと状況の読み取れる歌が残されている。


その相手が「さわ」のモデルだと考えられるのだが、残念だが彼女の名前はわからない。


そのためここでもあえて、さわという名前を使うことにする。


さわにあてた歌の前には珍しく、少し長めの詞書が置かれている。


「私の姉が亡くなり、友人(さわ)は妹を亡くした。そんな二人が出会い、亡くなった姉妹の代わりに互いを姉と呼び妹と呼びましょうと決めた。」


「手紙には姉君、妹君と書いて 文通していたけれど、お互いに遠くに別れることになってしまった。」という前書きである。


早くに姉を亡くした紫式部は、さわとまるで本当の姉妹のような交流をしていたようである。


家の中だと誰に聞かれるかわからないので、あえて手紙の中でだけ「姉君」「妹よ」と呼び合って密かに互いの寂しさを慰めあっていたようである。 


さわという人物は、紫式部よりも少しだけ年上であったようだ。


しかしその姉君であるさわはあるとき、都から離れることになってしまう。


ちょうどこの頃、紫式部も父親の仕事の都合で、越前への転居が決まっていた。


そのさわとの別離の悲しみを、紫式部は歌に詠んでいる。


北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲の上がき 書き絶えずして 


秋になると雁は北国に帰っていく。


その雁の翼に便りをのせてください。雁が翼を絶え ず動かすように、便りを書き絶やさないように、という意味である。


紫式部は必ず手紙を書くようにと、さわを励ました。


しかし彼女はといえば、 お互いに遠方に離れてしまい、都で会えるのはどれだけ先になることかと、嘆くのである。


さらに彼女は旅の途中、摂津国からも手紙をよこした。


群れて暮らす水鳥のように、あなたと一緒に過ごせたらいいのに、と。


何度も届く彼女の手紙を、遠く離れた越前で読んだ紫式部は何を思ったことだろう。


しかし紫式部はただ、あなたに会いたいと願う私の心は、松浦にある鏡の神様がお見通しだと、会いたい気持ちを可愛らしく歌に託している。


紫式部は普段は見せない、素直な雰囲気を、さわとのやり取りだけには見せている。


さわとのやり取りはこれらの歌だけではなく、他にもいくつかの歌がそうではないかと言われている。


例えば、詞書に「筑紫へ行く人のむすめ」と呼ばれる女性から贈られたという歌である。


西の海を思ひやりつつ 月見れば ただに泣かるる頃にもあるかな 


遠い西の地に行くことを思いながら月を見上げると、ただ泣けてくる、という歌である。


そのため、相手の女性が「筑紫の君」と呼ばれることもある。


さわの手紙に対して紫式部は、月は東から西へと巡っていくではないですか。


月に手紙を言伝てて、雲の通い路を絶やさず文通を続けましょう、と返している。


この女性が遠くに行ったということから、相手の「筑紫の君」は姉君だろうとされている。


さわはこの頃に筑紫へ行くことが決まったのか、西の地の遠さを憂いては泣いている。 


さらに続けて出てくる次の歌にも、同じ人物が登場する。 


奥山里の紅葉は赤く染まっている。同じように血の涙で赤く染まっている私の袖を見 てほしい。


歌の前に置かれた詞書には「遠いところへ行こうか行くまいか迷う人が、山里から紅葉と歌を送ってよこした」と書かれている。


これが筑紫へ行く娘、つまり姉君、さわであるとするなら、この頃はまだ筑紫へ行くかどうか迷っている。


彼女は霜の降りる頃にもまだ憂いていて「筆が進まない」という歌を紫式部に送ってよこした。


そんな彼女に紫式部は、筆が進まなくてもぜひ手紙を書いてね。


あなたの手紙で私の凍てついた心が流せるのだから、と彼女は再度慰めている。


多くの近しい人々を亡くした紫式部が、やっとめぐり会えた親友である。


さらに姉と妹と呼びあう二人だからこそ、連絡が途絶えてしまうことを紫式部は恐れていたのかもしれない。


紫式部の生きた平安時代は医療が未発達で、疫病などで人々はあっけなく死んだ。


また当時の筑紫は治安が悪く、政変に巻き込まれ殺されたり遠くに追い やられることも多々あった。


運良く長く生きられたとしても、今の時代のように気軽に旅行に出られるわけではない。


一度都を離れてしまえばどんなに会いたいと願ってもすぐに会うことはできない。


特に都に住む紫式部のような貴族の娘ならなおさらである。


紫式部はさわとの別れは、胸がかき乱されるほど辛いことであったはずである。


しかし運命には逆らえない。紅葉の季節に西の地を思って嘆き、霜の頃には筆も進まないと憂いていたさわも、とうとう遠い筑紫へと去っていく。 

二人はきっと、もう一度出会おうと約束しあっただろうし、歌のやり取りを続けることも願っていただろう。


しかし筑紫から来る歌は、次第に途切れがちになってしまう。


そしてついにさわは、遠く筑紫で亡くなっ てしまう。


紫式部は、任地から戻ってきたさわの親兄弟からそのことを告げられるのである。


紫式部と姉妹の契りを結び、亡くなった姉君、さわ。


二人の密かな交流を教えてくれるのは、紫式部が残したいくつかの歌だけである。


しかし実は紫式部はそんなさわを、「源氏物語」の中にちゃんと書き残している。


多くの女性が登場する物語だが、その中に「筑紫の五節」という女性が登場する。


その人こそ、さわ、筑紫へ行った姉君をモ デルにしているのではないかと言われている。


この「筑紫の五節」は五節舞という祭事 の舞を担当した女性だが、彼女は「源氏物語」の主人公である光源氏と密やかな交流を持った。


しかし彼女の父親が太宰府に赴任することになり、「筑紫の五節」は光源氏から離れ九州へ下向することになる。


紫式部はさわを「源氏物語」に登場させて、彼女との思い出を末永く残そうとしたのである。


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