源明子は藤原道長の正式な妻となったが、道長にはもう一人の正式な妻・源倫子がいた。


そしてのちに明子と倫子の子供たちが対立して、170年もの間続いた藤原氏の摂関政治を終わらせることになるのである。


源明子の最期を詳しく見ていこう。


明子と倫子の、どちらが先に道長と結婚したのかについては諸説がある。


しかし道長は倫子と明子を妻にしたことで、彼の将来は大きく開けることになる。


源明子は父・源高明と母・愛宮の間に生まれたが、父・高明は醍醐天皇の第10皇子であった。


高明は6歳の時に臣籍降下して源氏を名乗り、25歳で公卿となっている。


皇位継承の最有力候補、為平親王に娘を高明は嫁がせたが、これが藤原氏を警戒させる。


高明は左大臣となるが、藤原兼家は為平親王の弟・守平親王を押し上げ円融天皇とした。


そして高明は、「安和の変」といわれる兼家の陰謀で謀反の疑いをかけられ大宰府へ流罪となった。


高明はその後都へ戻されるが、失意のうちに没している。


父の失脚後、まだ幼い明子は叔父で醍醐天皇の第15皇子の盛明親王の養女となっている。


そして盛明親王の没後は、東三条院詮子の庇護を受けている。


当時は怨霊信仰が盛んで、東三条院は死んだ高明の怨霊を鎮めるために明子を庇護した。


やがて美しく育った明子に、道隆や道兼は恋文を送ったが、東三条院は道長だけに明子のもとに通うことを許している。


東三条院は母の時姫亡き後、道長を母親がわりに育てたので、道長には愛着があった。


明子と倫子は、同じ24歳の頃に道長と結婚している。


道長は二歳年下で、明子と倫子はどちらも姉さん女房であった。


明子は父・高明から引き継いだ高松殿にすんだために高松殿と呼ばれた。


そして明子は道長との間に、頼宗、顕信、能信、寛子、尊子、長家の四男二女の6人をもうけた。


一方の倫子も道長との間に、頼通、教通、詮子、彰子、妍子、嬉子の二男四女の6人をもうけている。


明子は醍醐天皇の孫であり、倫子は宇多天皇のひ孫であった。


そのため血統的には明子が倫子に勝っていた。


ところが倫子の父・源雅信は現職の左大臣であり、道長は倫子と土御門殿で同居した。


明子の父・高明も元左大臣であったとはいえ、藤原氏によって罪人にされ、すでに没していた。


そのため倫子が正妻とみなされ、明子は「妾妻」とみなされたのである。


それでも明子を庇護していた東三条院が存命中は、明子と倫子の子供たちにあまり格差はつかなかった。


ところが一条天皇が即位して国母となった東三条院は、40歳を迎えると急に体調を崩してしまう。


そのため宮中では東三条院の回復を願い、四十歳を祝した宴が催された。


明子の長子・頼宗と倫子の長子・頼通が一条天皇の前で舞を披露することになった。


頼宗は舞が得意で見事な舞を披露したため、一条天皇は頼宗の舞の師匠に位階を授けた。


すると倫子が道長に片方だけに与えるのはおかしいと抗議したので、のちに頼通の師匠にも位階が授けられている。


この時すでに、倫子は一条天皇や道長にさえ、物申し覆す権限を持っていたのである。


東三条院はこの年に逝去するが、以後は明子と倫子の子供たちに格差が生じていく。


倫子は子供たちに関しては、細かいことにまで口を挟んだようである。


ドラマでは明子は、父・源高明を陥れた藤原兼家を呪詛して呪い殺そうとする。


これが事実かどうかは不明だが、明子やその子供たちが差別されたことは確かである。


倫子の子供たちは嫡子として、男子2人は関白に、女子4人はいづれも中宮になっている。


しかし明子の息子たちは頼宗の右大臣が最高位で、2人の娘はいずれも天皇に入内することはなかった。


そんな仕打ちにも、明子はじっと耐え忍んだようである。


明子は育ちが良いせいか、子供たちには苛立ちなどはおくびにも出さなかったという。


ところで倫子の男子、頼通と教通は二人とも道長の息子にすれば凡庸であった。


それに比較して明子の男子、特に頼宗と能信は頭脳明晰で優秀であった。


能信は、血統的には倫子よりも上でありながらしいたげられている母・明子の姿を幼少の頃から見て育ち、反抗的に育った。


そのため表面的には父・道長に従いながら、常に頼通、教通兄弟にはライバル心を燃やしていた。


一条天皇が逝去すると三条天皇が即位して、敦明親王が東宮となった。


すると道長は東宮となった敦明親王のもとに明子の娘・寛子を入内させようとする。


敦明親王の妃にはすでに藤原顕光の娘・延子がおり、二人の親王と一人の内親王を生んでいた。


しかし明子や能信らは、やっと我が家から中宮が誕生するかもと喜んだ。


ところが敦明親王は三条天皇と藤原済時の娘・娍子の第一皇子である。


もしも敦明親王が即位することになれば道長は外祖父とはなれず、藤原九条流の摂関政治は終わってしまう。


そのため道長や頼通たちは、敦明親王に東宮を辞退するように圧力をかけていく。

結局敦明親王は道長らの圧力に屈して、東宮を道長の孫・敦良親王(のちの後朱雀天皇)に譲るのである。


すると自ら皇太子を退いた敦明親王への返礼の意味も兼ねて、道長はなんと寛子の婿に親王を迎えるのである。


親王との間に既に、皇子と皇女をもうけていた妃の延子とその父藤原顕光は、激しい嘆きのうちに相次いで死去する。


そして敦明親王との赤子を二度に渡って亡くし病に倒れた寛子は、藤原顕光と延子の怨霊に苦しめられながら死んでいく。


ここに至って明子や能信たちは、道長や倫子たちの仕打ちにがく然とするばかりであった。


それでも明子と頼宗たちは嫡男である藤原頼通となんとか協調しようとしたが、能信のみはそれを拒絶した。


能信は公然と頼通と口論して、父道長の怒りを買うことすらあったという。


母親思いの能信は、明子をおもんぱかってあえて過激な行動に出たのである。

しかし病に倒れた道長は最期まで能信の能力を惜しんで、彼をかばって権大納言まで昇進させている。


道長の死後、能信は関白となった頼通に、表面上は従いながら、反抗心をより燃やすのである。


頼通は養女まで入内させたが、皇子を生まなかった。


すると能信は頼通に対抗して、頼通と敵対をしていた東宮尊仁親王(のち後三条天皇)とその母陽明門院を強く庇護した。


この能信の行動が、院政による摂関政治の凋落に繋がっていく。


藤原能信は1065年康平8年、71歳で没している。


明子と倫子の子供たちがにらみ合い、対立したことで、摂関政治はその終焉を早めた。


さらに言えば、明子と倫子の二人が道長を最高権力者に押し上げたが、また二人が摂関政治を終焉に向かわせたとも言えるのである。


後朱雀天皇が崩御して即位した後三条天皇は、後朱雀天皇の第二皇子で母は三条天皇の第三皇女で後朱雀皇后の禎子内親王である。


後三条天皇は後冷泉天皇の異母弟で、宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である。


後三条天皇のあとを受けた白河天皇は、摂関政治を廃して院政を確立する。


源明子と源倫子は共に長命で、二人は藤原九条流の凋落を眺めながら、明子は86歳、倫子は90歳で逝去している。


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