藤原道長には源雅信の娘の源倫子と、源高明の娘の源明子という二人の正式な妻がいた。


そして倫子と明子はそれぞれ6人の子供を生み、摂関政治の基礎を揺るぎないものにしたかに見えた。


ところが道長の後を継いだ頼通の娘には皇子は生まれず、摂関政治は瞬く間にその終焉を迎えるのである。


藤原道長と子供たちのその後を詳しく見ていこう。


藤原道長には源倫子と、源明子という二人の正式な妻がいた。


しかし道長は土御門邸で倫子と同居したため、正妻は倫子だったと言われている。


道長が書いた「御堂関白記」に登場する回数は倫子が圧倒的に多い。


倫子との間には頼通と教通という二人の男子と、そして彰子・妍子・威子・嬉子の四人の女子の6人の子供がいた。


また明子との間には頼宗・顕信・能信・長家の四人の男子と寛子と尊子という二人の女子の合計6人の子供がいた。


道長は子供に多く恵まれたが、特に女の子に恵めれたために、摂関政治においては有利な地位を道長にもたらした。


そして道長は倫子と明子の子供たちに、明らかに格差をつけたのである。


「道長の妻たち」の動画でも詳しく述べたが、倫子は宇多天皇のひ孫で明子は醍醐天皇の孫であった。


血縁的には、明子が倫子よりも高貴で、父親はどちらも左大臣であった。


しかし倫子の父・源雅信は現職の左大臣であったが、明子の父・源高明は元左大臣で、しかも罪人の身であった。


当時は婿入婚で、道長は倫子の土御門邸に住み、源雅信から莫大な遺産を引き継いだ。


道長が最大のライバルであった藤原伊周に勝利できたのも、雅信の遺産があったからである。


そのため自然と道長は、明子よりも倫子の子供たちを優先させたきらいがある。


また倫子も、子供のことに関しては大人しく引き下がってはいなかったことを示す、次のようなエピソードが残されている。


道長の姉で、一条天皇の生母である東三条院詮子の40歳のお祝いのとき、倫子の息子で10歳の頼通と、明子の息子で9歳の頼宗が舞を舞った。


東三条院は、明子が道長と結婚する前に明子を一時期の間養女としていた。


そのため東三条院は、普段から自然と明子の子である頼宗の方をかわいがっていた。


そしてこの時も東三条院は、頼宗の舞の師に、褒美として従五位下の位をさずけたが、頼通の方の師には何の沙汰もなかった。


するとこれに対して倫子は、一方だけというのは不公平だと文句をつけた。

そのため後から、頼通の師にも位がさずけられている。


東三条院詮子は、一条帝の生母として当時は権勢ならぶものがなかったが、倫子は猛然と抗議したのである。


倫子は国母といわる東三条院詮子にさえ、堂々と抗議できる道長の正妻という地位をこの時すでに確立していた。


そのため倫子の息子の頼通は26歳で内大臣、教通は22歳で中納言に出世し、公卿のなかでも格段に若かった。


また倫子の娘たちは「一家三后」といわれる前代未聞の状態となり、道長に は天皇の外祖父、息子の頼通には外叔という立場をもたらした。


道長の「御堂関白記」には藤原実資の「小右記」など同時代の他の日記と異なり、妻の倫子や娘の彰子と妍子が非常に高い頻度で登場する。


このことは、彼女たちが政治的に、特に重要であったことを示している。


倫子の子供と明子の子供では、男子に関しては昇進、女子に関しては嫁ぎ先に明らかな差が存在している。


男子に関して、公卿の仲間入りをはたした年齢をあげると倫子の息子の頼通が5歳、教通が15歳である。


これに対して明子の息子が公卿に列したのは、頼宗が19歳、能信が20歳、長家は18歳である。


さらに顕信については、公卿になる前に出家させられている。


そして摂政、関白となったのは倫子の息子の頼通と教通だけであった。


女子の嫁ぎ先に関しては、倫子の娘の彰子が一条天皇、妍子が三条天皇、威子が後一条天皇、そして嬉子が敦良親王(のちの後朱雀天皇)に嫁いだが即位前に没している。


いずれにしても倫子の娘四人は、すべて中宮となっている。


しかし明子の娘の寛子が嫁いだのは敦明親王、尊子は源師房で、どちらも中宮にはなっていない。


敦明親王は、三条天皇の第一皇子だが、道長の圧力の前に自ら皇太子を辞退している。


三条天皇の死後、自ら皇太子を退いた敦明親王への返礼の意味も兼ねて、道長は娘寛子の婿に親王を迎えた。


しかし既に皇子をもうけていた妃延子とその父藤原顕光は、激しい嘆きのうちに相次いで死去している。


そのため「栄華物語」には、後に27歳の若さで病に倒れた寛子の臨終には二人の怨霊が現れたと書かれている。


以上のように倫子と明子の子供たちに、道長はあからさまに差別をしたため、明子の子供たちは穏やかではなかった。


特に父親の道長に似て勝気な性格だった能信は、1009年寛弘6年には異母姉の彰子の敦良親王(後の後朱雀天皇)誕生を祝う儀式中に暴れている。


能信は同席した左近衛少将・藤原伊成を罵倒した挙句、加勢した能信の従者によって一方的に暴行している。


伊成は憤慨したが、相手が道長の子息ではなんとも出来ず、ついに出家している。


さらに能信は、倫子の息子で内大臣藤原教通の従者を虐待する事件を起こしている。


1022年治安2年のこと、28歳の能信と27歳の教通とが、派手な兄弟ゲンカで世間を騒がせたのである。


藤原実資の「小右記」が伝えるところでは、その年の3月23日の朝、内大臣藤原教通の従者たちが、にわかに権大納言藤原能信の従者の住む家宅を破壊した。


ところがこれは、倫子の息子の教通から能信への報復であった。


実は、この前々日、権大納言能信が内大臣教通の従者を拉致して監禁するという事件 が起きていたのだ。


能信が自邸に監禁したのは教通の廐舎人長であった。


「廐舎人長」というのは、その名のとおり、馬の世 話を役目とする廐舎人たちの長である。


したがって、同じく従者とはいっても、廐舎人長は多少は地位の高い従者であった。


廐舎人長は拉致・監禁されたうえに暴行を加えられたが、その後の消息は不明である。


実資は「小右記」に、能信と教通がもめた原因は、土地問題、土地争いであったと記している。


藤原道長は自身の政権の後継者と見なしたのは、倫子の産んだ頼通や教通であり、明子の産んだ頼宗や能信ではなかった。


頼通が道長から摂政の座を譲られて、後に関白になった。


そして頼通の跡を受けて関白に就任したのは頼通の弟で倫子の息子ある教通であった。


そして、明子の息子の頼宗や能信には摂政や関白となるチャンスは全く与えられることはなかった。


土地問題が原因となって能信と教通とが争った とき、能信は28歳で権大納言であったが、27歳の教通はすでに内大臣となっていた。

藤原頼通は、15歳で従三位となり、以後、急激に昇任していき、1017年寛仁元年には内大臣となっている。


道長は、兄弟、従兄弟、叔父甥間で激烈な摂政、関白争いをしたので、自身が健在のうちに子に摂政を継承させようとしたと考えられる。


つまり地位をめぐって兄弟が争わないように、倫子と明子の子供たちに格差をつけたのである。


したがって、父道長が亡くなるまで頼通は十年間はその庇護を受けている。


頼通は甥にあたる後一条、後朱雀、後冷泉の三天皇の摂政、関白を50年以上も勤めることとなった。


しかしこれは、頼通が後継者に恵まれなかったためである。


そのため結局頼通は、1068年治暦4年に同母弟で72歳の教通に関白を譲っている。


高齢の教通も、7年後には他界している。


また、頼通が入内させた娘や養女も皇子を生まなかったため、外戚関係を継続できず、結局摂関政治を終わらせることとなる。


藤原九条流とは関係のない、後三条天皇が即位して、300年間続いた摂関政治は終焉を迎える。


藤原道長は自らの経験から兄弟争いを避けるために、倫子と明子の子供たちに格差をつけた。


明子の子供たちは、倫子の子供たち以上に優秀な子供たちを多く残していた。


にも関わらず、明子の子供たちの子孫が活躍する場は与えられなかった。


藤原道長は、よかれと考えて取った方策が、結果としては摂関政治を早く終わらせてしまったのである。

【藤原道長と子供たち】ユーチューブ動画