藤原伊周は藤原道長とともに「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルだと言われている。


しかし伊周と道長は全く違ったタイプの男性で、その歩んだ人生も全く真逆であった。


藤原伊周の生涯と最期を、詳しく見ていこう。


藤原伊周は藤原道隆と高階貴子の嫡男として、974年天延2年に生まれた。


父母の資質を引き継ぎ、幼少の頃から容姿端麗で貴賓があった伊周は、中関白家と呼ばれた一家の希望の星であった。


990年正暦元年、藤原兼家が亡くなり父・道隆が関白に就任すると、伊周は21歳という若さで内大臣となっている。


この時点で伊周は、叔父で権大納言の藤原道長よりもはるかに関白の地位に近い位置にいた。


ところが995年長徳元年、伊周と道長の人生は怒涛の急展開を見せることになる。


この年、春から夏にかけて天然痘や麻疹などの疫病で多くの人々が没した。


疫病は都を襲い、当時、道長より位の高かった貴族八人のうち、関白道隆以下六人 が、わずか三か月の間に次々と世を去った。


現在の日本でも「はしか」の感染が懸念されているが、当時は麻疹といわれたはしかが猛威をふるった。


この年に関白・藤原道隆も死去するが、道隆の死因は流行病ではなかった。


道隆は糖尿病の持病を持ちながら大量の飲酒をしたための急死であった。


さらに道隆の後を受けて関白に就任した藤原道兼は、わずか数日で疫病のために没するのである。


これだけ多くの公卿が一年のうちに死亡するのは、長い日本の歴史でも前代未聞のことであった。


流行病が鎮静化したとき、権大納言以上の高官で生き残っていたのは内大臣の伊周と権大納言の道長の二人だけだったのである。


特に道長は、現代で例えれば、無名の議員が突如として首相候補に浮上するようなものであった。


そのため以前から後継者として期待されていた伊周としては、道長を少々みくびっていたようなふしがある。


ところがふたを開けてみれば、道長が圧倒的な勝利を納めることになる。


なぜ道長が伊周に勝てたのかの要因は、主に次のたった2つの理由からである。


一つ目は有力な女性との結婚で、二つ目は姉・詮子の強力なバックアップである。


平安時代は娘が家財や不動産を相続する事が多かった。


そのため道長は、左大臣源雅信の娘・倫子を正室に迎えたことで約4400坪の土御門邸を手に入れている。


土御門邸のあった京都市上京区の、現在の土地売買の平均価格は一坪約150万円である。


現在の貨幣価値に換算すれば、土地だけで66億円の価値である。


道長は源倫子に婿入りして、さらに同じ規模の邸宅を与えられ、合計約8700坪の土地を手に入れている。


つまり道長は倫子と結婚することにより、土地だけで約130億円以上の財産を手にすることになったのである。


一説には五男坊とも言われ、将来出世の見込みがない道長との婚姻に、当初倫子の父で左大臣・源雅信は反対していた。


ところが倫子の母・藤原穆子は、道長の言動や立ち振舞いなどから将来を予見して雅信を説得し、婚姻をすすめた。


一方の伊周は、権大納言源重光の娘を正室に迎えたが、重光は別の娘に邸宅を譲ったために何も相続できていない。


以上のような二人の資産格差がのちに、道長と伊周が最高権力者の地位をめぐって争う時に、大きな力の差を生み出すことになる。


現在でも選挙にはお金がかかると言われるが、当時は今と比較にならないほどに財力がものをいったのである。


のちに道長は自分の経験から、嫡男の頼通には「男は妻がらなり」と教え、具平親王の娘・隆姫女王と結婚させている。


つまり男の将来は、妻の家柄で決まると、息子に教え実践させたのである。


道長は源雅信から譲り受けた土御門邸を大改装して、公卿たちを招待して大宴会を催し、歓待したと伝えられている。


また道長は、元左大臣・源高明の娘・明子も妻にしている。


倫子と明子はともに賜姓皇族で、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りた由緒ある家柄の出身者であった。


倫子は宇多天皇のひ孫であり、明子は醍醐天皇の孫である。


藤原道長は源倫子や源明子と結婚することによって、莫大な財産とともに、高貴な家柄というお金では買えないものを同時に手に入れたのである。


そして伊周との勝負において、道長の勝利を決定づけたのが、姉詮子のバックアップであった。


道長は幼い頃から、母親がわりに姉の詮子に育てられ可愛がられた。


一条天皇の母・詮子は道隆・道兼の後継者は伊周ではなく、道長にするよう天皇に説得して承諾させている。


また詮子は、伊周の母・貴子が勢力を伸ばすと、高階家が台頭してくることを恐れたからだとも言われている。


それにしても、姉の詮子といい、藤原穆子といい、道長は年上の女性に気に入られる術を心得ていたようである。


権力者争い本命の藤原伊周を差し置いて、あっさりとダークホースの道長が勝利を納めたのは、以上の2つの要因によると考えられる。


そして、貧すれば鈍する、と言われるように伊周は取り返しのつかないミスを犯してしまう。


自分の愛する姫を花山法皇に横取りされると誤解した伊周は、弟の隆家に命じて法皇に矢を射ってしまうのである。


この前代未聞の不祥事で伊周は、隆家とともに流罪となってしまう。


しかし当初、伊周と隆家は比較的都に近い播磨と但馬に流罪となっている。


ところが、 伊周の母貴子が病気になって、「最期に一目、伊周と隆家に会って死にたい」と嘆いた。


これを聞いた弟の隆家は思い止まるが、伊周は配流先を抜け出して都に戻り、母のもとへ行くのである。


結局伊周は捕縛されて、今度は九州の大宰府へ流罪となってしまう。


冷徹な道長は、伊周の母方の高階家の叔父たちも怠りなく左遷している。


人情にもろい伊周と、冷徹な道長の差が、勝敗を決したのである。


伊周の母高階貴子は中関白家と高階家が没落する中、さみしく失意のうちに逝去している。


しかし伊周は妹の定子が一条天皇の内親王を生んだことで、すぐに弟の隆家とともに都へ召還されている。


定子は、出家したにも関わらず一条天皇に呼び戻され、999年長保元年には、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産する。


道長は娘の彰子を入内させるが、なかなか皇子や皇女を生まなかった。


そのため一条天皇は、伊周を復帰させて定子の死後は敦康親王を養わせた。


もしも敦康親王が皇位継承者となれば、親王の外舅である伊周が俄然権力の中枢にのしあがれる。


そのため、日和見主義のほとんどの公家たちは昼は道長に仕えても、夜は密かに伊周の屋敷へ参上することが多くなった。


ところが彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を生むと、伊周のもとに訪れる人は一人もいなくなったという。


1007年寛弘4年には、伊周・隆家兄弟が道長暗殺を企てているとの噂が広まったが、真偽のほどはわからない。


藤原伊周は失意のうちに1010年寛弘7年正月、まだ37歳という若さで没した。


臨終に際して伊周は、息子の道雅に「人に追従して生きるよりは出家せよ」と遺言したという。


伊周は息子には、自分と同じ思いをさせるのは忍びないと考えたのかも知れない。


【藤原伊周の最期】ユーチューブ動画