一条天皇がまだ11歳の時に、藤原道隆の長女で15歳の定子が女御として入内した。


やがて二人は藤原道長に、帰服と忍従を強いられることになる。


一条天皇と定子のその後を詳しく見ていこう。


980年天元3年、一条天皇は円融天皇の第一皇子として藤原兼家の娘・詮子との間に生まれた。諱は懐仁である。


986年寛和2年、花山天皇を兼家と道兼が騙して退位させ、一条天皇が即位したのはまだ7歳の時であった。


幼い一条天皇を補佐するという名目で、兼家が摂政となり、道隆ら息子たちを次々に出世させる。


990年正暦元年、兼家は関白となったが、病を発症すると関白を嫡男の道隆に譲って62歳で逝去する。


しかしこの時、次男の道兼は花山天皇を出家させたのは自分で、自分こそ関白に任ぜられるべきだ激怒する。


道兼は家人の源頼信と道隆暗殺まで企てたが、結局発覚するのを恐れて中止している。


道兼は、兼家の葬儀や法要にも一切顔を出していない。


兼家の息子たちは水面下では関白の地位をめぐり、し烈な争いを繰り広げていた。


一方の藤原定子は、977年貞元2年に道隆と高階貴子との間に長女として生まれている。


関白となった道隆は、定子が15歳になると11歳になった一条天皇のもとに当初は女御として入内させている。


ところがなぜか道隆は突如として、定子を990年10月、一条天皇の皇后として「中宮」と名乗らせるのである。


そのため、立后の詔にも「皇后」と明記されている。


それまでは中宮とは、皇后の別名で、両者は全く同じものであった。


正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王、皇太后は当帝の生母・藤原詮子、中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子であった。


中宮の地位には、皇后の先々代の帝の正妻・藤原遵子がすでにいたのである。


そのため定子の立后は無理なはずだが、道隆はその中に強引に割り込ませて定子を立后させている。


道隆は、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させ定子の立后を謀ったのである。


そのため遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設した。


そして前代未聞の「四后並立」にしてしまったのである。


その結果、前例を無視して皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いた。


そのため道長は、道隆に中宮大夫を命じられて定子を補佐することになったが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。


世の人々は、道長の態度を気丈で勇気のある行動だと賞賛した。


のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別により「一帝二后」としたが、その元を作ったのは定子の父道隆であった。


道隆が関白として権力の頂点に君臨していたため、兄の伊周や定子たちの中関白家と呼ばれた一族は我が世の春を謳歌した。


定子の母・高階貴子は、才色兼備を謳われ、天皇の秘書とも言える内侍の出身者であった。


そのため貴子は当時の女性としては珍しく漢籍の嗜みがある女性で、その影響で定子も漢詩に詳しかった。


この事が学問好きの一条天皇の好みに合致し、定子は一条天皇の最愛の后となった。


教養ある定子のもとには、当時一流といわれた才女が次々に女房として仕え、一大文化的サロンが形成されていったという。


道隆は一条天皇をより定子のもとへ通わせるため、清少納言や赤染衛門を女房に招き入れた。


清少納言が宮中へ上がったのは、993年正暦4年の冬の季節であり、28歳の頃であった。


清少納言は定子に仕えるにあたり、夫・橘則光も、子の則長とも、ともに別れていた。


彼女はすべてを絶ちきって定子に仕える覚悟を固めていたが、 そのとき定子はまだ18歳であった。


しかし長く宮中生活を過ごすうちに、定子は若くして機知にとんだ大人の女性に成長していた。


清少納言は素晴らしい定子の人間性に触れ、一生定子のために仕えることを決意している。


清少納言はその時の心境を「枕草子」に次のように綴っている。


「将来に何の望みもなく、家庭に入ってひたすらまじめに生き、偽物の幸せを生きる。」


「そんな人生を送る女を私は軽蔑する。やはり、高い身分の娘は、しばらく宮仕えをさせ、世間の有様をしっかり見聞させるべきだと思う。」


「中には宮仕えする女はよくないと悪口をいう男がいるけど、本当に憎たらしい。」


ところで当時の上流貴族にとって、娘を入内させ、皇子を生ませることが、政治の実権を獲得する一番の手だてとされていた。


そして、藤原道隆もその例外ではなかった。


道隆は嫡男の伊周らと定子のサロンをたびたび訪れ、女房たちに冗談をいって笑わせたという。


ところが突如として43歳の藤原道隆は、関白に就任してわずか五年で逝去する。


もともと糖尿病の持病をもつ道隆は、過度の飲酒がたたって寿命を縮めたのである。


道隆の後には道兼が関白に就任するが、疫病のためにわずか数日で他界する。


後継者争いは道隆の嫡男・伊周と道長との間で争われた。


しかし一条天皇の母で皇太后の詮子は、伊周の母・貴子が勢力を伸ばすと、高階家が台頭してくることを恐れた。


そのため詮子は、一条天皇を泣きながら説得して、遂に道長が後継者に決定する。


さらに藤原伊周と弟の隆家は、花山法皇に過って矢を射るという不祥事を起こし、都から追放されている。


父の道隆に続いて兄の伊周という後ろ楯をなくした定子は、悲しみのあまりに落飾している。


しかし定子を愛する一条天皇は、すでに剃髪までした尼姿の定子に参内させている。


そして999年長保元年、 定子に待望の第一皇子の敦康親王が生まれたが、皮肉にもこの日は道長の娘の彰子が一条天皇の女御となる日であった。


彰子にはなんと52人もの美しい女房たちが、付き従って藤壺に入っている。


また道長は、彰子を入内させるにあたって、花嫁道具に豪華な屏風を作り、公卿たちに屏風和歌を詠むよう求めた。


屏風和歌は、通常は身分の低い貴族たちが詠むというのが慣例であった。


ところが道長は、上流貴族にも詠ませることによって、自分に従うかどうかを試す、いわゆる踏み絵をさせたのである。


そして藤原実資をのぞいて、すべての公卿たちは道長のために和歌を詠んだという。


さらに花山法皇も道長の要求に屈して一首詠んでいるが、さすがにこの歌は「読み人知らず」とされている。


翌年に道長は、彰子を中宮とするために定子を皇后としたが、もはや誰も止める者はなかった。


時の趨勢は、すべて道長と彰子へのながれとなっていた。


しかしこの時も、一条天皇の愛だけは、ひたすら定子にそそがれていたことだけが、彼女にとってせめてもの生きがいであった。

西暦1000年長保2年の師走、定子は第二皇女を産んだものの、産後のひだちが悪く、しだいに衰弱する。


そして栄枯盛衰を短時日に見つくした25歳の定子は、一親王と二内親王を残し、短い生涯を閉じた。


遺言によって亡骸が暗く寂しい南鳥部野に土葬されたのは、雪の降りしきる寒い夜のことであった。


定子が残した孫の一人が、のちに不運のなかで後朱雀天皇の中宮となったことがせめてものなぐさみであった。


一条天皇は、長く定子の死を悲しんだ。


そのため道長は、天皇の心を彰子に向かせるために様々な努力をし、一見一条天皇も元気を取り戻したかに見えた。


しかし32歳の若さで没した一条天皇は、最期に次のような内容の詩を残した。


蘭が繁ろうとしても、強い風が吹いて折ってしまい、繁ることが出来ない。それと同じく、天皇の威光を悪臣が遮って国家を乱してしまう。


一条天皇の死後に、手箱からこの詩を書いた紙を発見した道長は、直ぐに燃やしてしまったという。


藤原氏が行った摂関政治は、代々の天皇に言い尽くせない帰服と忍従を強いたのである。

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