紫式部の父・藤原為時は1014年長和3年、なぜか受領の任期を1年残して辞任し出家する。


そのためこの年に、紫式部が死んだのではないかとする説が存在する。


藤原為時の最期と紫式部の死の謎を詳しく見ていこう。


藤原為時は949年頃に受領などを歴任した下級貴族・藤原雅正の三男として生まれたと言われている。母は右大臣・藤原定方の娘である。


菅原道真の孫である菅原文時に師事した為時は、中国の歴史・詩文を専攻する学生として頭角を現している。


為時は藤原為信の娘と結婚して、紫式部をはじめ一男二女をもうけるが、藤原為信の娘は若くして逝去している。


984年永観2年、為時は東宮時代から近侍していた花山天皇が即位すると、学者の出世コースだった式部丞に取り立てられる。


そのためのちに宮廷に仕えた紫式部の呼称は、為時の「式部丞」に由来している。


ところが花山天皇がわずか2年で退位すると、為時は以後10年間は無官の状態で不遇の時を過ごすことになる。


受領としては恵まれなかった為時だが、詩人としては花山天皇に続く一条天皇の治世にも名声を高めている。


「続本朝往生伝」という平安時代後期の記録に「天下の一物」とし て、当時を代表する文士10人の中の1人に名が挙げられている。


996年長徳2年、ようやく越前守に任じられた為時は、娘の紫式部を伴って国司として越前の任地に下向している。


越前は生産力の豊かな最上位の大国だったので、為時一家の生活はようやく潤った。


やがて紫式部は、帰京して藤原宣孝と結婚する。


紫式部の婚期が遅れたのは、為時が無官の時代が長く、一家が貧しかったからだと言われている。


それはともかく、為時は漢詩や和歌をはじめ音楽など多岐にわたる才能を持ち合わせていた。


そのため為時は村上天皇の第七皇子の具平親王とは漢詩仲間で、親王邸に招かれるほど親しい間柄だった。


また、為時は漢詩のみならず和歌にも優れ、勅撰和歌集に4首の和歌が選ばれている。


しかし頑固で融通のきかない為時は、宮中でもたびたびトラブルを起こすことになる。


宮中で正月の宴が催された際、為時は藤原道長から天皇の御前で音楽を奏でる演奏者として抜擢される。


ところが、何か気に食わないことがあったのか為時はろくに演奏もせず早々に退席した。


そのためそばにいた紫式部は酔った道長に 「父御はひねくれているな」と絡まれ、父の代わりに歌を詠まされそうになったという。


優れた才能を持ちながら、出世から見放された父親を持った紫式部は、なにかと苦労が絶えなかったようである。


しかし、為時の優れた才能が紫式部に受け継がれ、「源氏物語」に花開いたことは間違いない。


ところが為時は、1014年長和3年6月に受領の任期を一年残して辞任する。


そして2年後の1016年長和5年4月、三井寺で出家 したと藤原実資の「小右記」に書かれている。


出家後は1018年寛仁2年に「為時法師」として漢詩を献じた記録が あるが、その後の為時は消息不明となり、没年も明確ではない。


そのため為時の出家は、1011年寛弘8年に長男の惟規に先立たれ、続いて1014年長和3年には紫式部が死去したためだとする説がある。


為時は息子や娘に先立たれたことに心を傷め、仏門へ入ったというのである。


しかしこれは没年が不明な紫式部が、1014年長和3年に逝去したことを前提にしている。


「紫式部の最期」の動画で詳しく述べたが、私は紫式部の没年は1031年長元4年説を支持している。


もしも、為時が出家した年が紫式部の没年なら、紫式部の享年は42だったことになる。


しかし、歴史学者・角田文衛氏は、1031年長元4年正月に紫式部は没したとする説を唱えている。


角田氏によれば、紫式部が住吉詣でに不参加という記録が残っているのが、この年だという。


そして、紫式部の娘・賢子が、母の喪に服する歌を残しているこの1031年長元4年が彼女の没年だとしている。


この場合、紫式部の享年は59ということになり、両説の間には17年もの開きがある。


つまりこの17年間に、紫式部は生きていたのかどうかが、謎だということになる。


これは為時の出家が、紫式部の死去に伴うと断定するところから生じる矛盾である。


当時は出家したからといって、全く日常生活から離れるというものではなかった。


つまり66歳となった為時は、体力の衰えを感じて隠居するために出家したのではないだろうか。


現に為時には娘婿に藤原信経がいたが、信経に後を譲っている。


為時は自分は隠居しても、一家の収入の安定をはかるため、国司の地位を婿に譲ったと考えられる。


さらにまた、出家してからの為時は世俗社会との関係を断ち切って、仏道修行に明け暮れていたわけでは必ずしもなかったのである。


1018年寛仁2年正月、藤原道長の嫡男で摂政の頼通が「四尺屏風十二帖」を新調した。


そして頼通はその屏風の色紙に 書く漢詩および和歌を、時の代表的な詩人歌詠みに求めた。


その詩人歌詠みの中に、大納言藤原斉信,同藤原公任とともに、「為時法師」の名前が記されている。


為時は出家者の身でありながらも、斉信、公任ら時の代表的な詩人と並んで名を連ねているのである。


つまり為時は出家後も、紫式部の父親として、また時代を代表する詩人として高く評価されていたのである。


紫式部は、長く藤原彰子のもとで女房として仕えた。


もちろんこの時も、紫式部は道長や彰子に信頼される女房として、宮中に仕えていたに違いない。


そしてこの詩歌の作者の選定には、時の最高権力者・藤原道長の意向も働いていたことが十分に考えられる。


つまり紫式部を通じて、為時は以前から道長のもとに出入りしてその愛顧を うけていたのである。


為時は出家後も道長や頼通とのつながりを維持していたのであり、必ずしも三井寺で静かに隠遁生活を送っていたわけでもなかったのである。


ドラマでは藤原兼家や源倫子に門前払いをされた紫式部だが、その後道長はしっかりと紫式部と為時の手助けをしたのである。


為時にかぎらず当時の貴族たちの多くは、出家したからといってすぐにそのまま俗世との関係を一切断ち切ったわけではない。


彼らは寺や 山林に入って心静かに仏道修行に努める隠遁者しての生活に安住した、というわけではなかった。


花山院に従って出家した藤原義懐も、ときどきには京に出て世俗の人々と会い、子の成房の昇進のことを縁者に頼みまわっている。


今後平安時代の研究が進めば、様々なことがわかってくるであろう。


以上のような考察の結果、私は為時と紫式部の没年を次のように考えている。


藤原為時は紫式部に見守れながら、1029年長元2年、81歳で逝去した。


そしてその2年後の1031年長元4年、紫式部は59歳で静かに息を引き取った。


【藤原為時の最期】ユーチューブ動画