藤原道隆は平安時代中期の公卿で、父は藤原兼家、母は藤原中正の娘・時姫で、道隆は道長の長兄である。


父・兼家が失脚していた時期には昇進が滞っていたが、兼家を継いで摂政、関白となってからは、その一家は「中関白家」と呼ばれ栄えた。


藤原道隆と子供たちのその後を、詳しく見ていこう。


「大鏡」や「枕草子」によると道隆は酒豪であり、気さくで大らかな性格であったことがうかがえる。


清少納言の「枕草子」には、いつも冗談を言って女房たちを笑わせていた道隆の様子が綴られている。


道隆には、藤原済時と朝光という仲のよい飲み友達がいた。


ある時に加茂詣でに行く途中、道隆たち三人は酒を浴びるほどに飲んだ。


当時は烏帽子や冠を取って頭を公衆の面前にさらすのはたいへんな 恥とされた。


しかし酒に酔った三人は、烏帽子を脱いで車の前後の御簾をあげながら騒いだという話が伝わっている。


酔いつぶれた道隆は、そのまま牛車の中に寝ころんでしまった。


社に着いて従者が起こそうとしたが、道隆は気づかない。


すると、同行していた道長が自分の車から下りて、道隆の袴を荒々しく引っぱった。


すると道隆はぱっと目覚め櫛をとり出して身づくろいしたという。


道隆は酔っても覚めるのも早く、なかなかその身だしなみは立派であったという。


道隆は容姿端麗で 挙措動作の洗練された人物でもあった。


そのため道隆は、宮中の女房たちにも非常に人気が高かったが、飲酒がたたり43歳の若さで危篤に陥る。


もともと糖尿病の持病があった道隆は、飲酒により急激に症状を悪化させたと考えられる。


父兼家から摂政・関白の地位を引き継いでいた藤原道隆は、三男の伊周への政権委譲を望んでいた。


しかし道隆は摂政・関白に就任してわずか五年ほどで、急死してしまうのである。


道隆には八男六女がいたとされているが、道隆は生前、正妻・高階貴子の生んだ三男四女を優遇した。


特に長女の定子と、三男・伊周、そして四男・隆家の三人に道隆は大きな期待をかけたようである。


長男の道頼と次男の頼親は妾腹の子であったため、道隆は三男の伊周を嫡男としていた。


伊周は道隆の資質を引き継ぎ、陽気なイケメンで宮中の女房たちにも人気があった。


長女の定子は一条天皇の中宮となった、美しく優雅な女性である。


中宮定子のサロンには、清少納言や赤染衛門がいたため、一条天皇もよく訪れていつもにぎやかであった。


四男の隆家は武勇に優れ、兄の伊周とは仲がよく、付き従っていた。


道隆は生前、二十歳過ぎの伊周を強引とも思えるやり方で、内大臣にまで昇進させている。


道隆は高階貴子の子供たちを特別扱いにしたため、周囲や身内にまで不満の声が多かった。


道隆の三女に三の御方と呼ばれる娘がいたが、彼女も高階貴子との間に出来た娘である。


三の御方は母の貴子に似て、和歌や漢文にも優れていたが、しとやかさに欠け、気位だけが高かった。


ある時、和泉式部と浮き名を流したこともある敦道親王が、三の御方の部屋を訪れた。


平安時代の女性は、十二単を着ていたが、帯はしめずに袴だけをはいていた。


親王が訪れた時、三の御方は御簾を高々と巻き上げ、落ち着きのない格好で突っ立っていた。


そのため彼女のはだけた胸元が丸見えのため、さすがの敦道親王も目のやり場に困ったという。


また三の御方はよく、大学寮の学生を集めて詩作の会を催した。


三の御方は砂金二、三十両を、屏風の上から、学生たちに目がけ投げたりした。


そのため学生たちは、砂金をくれるのはありがたいが、彼女の態度は傲慢で醜態なことだとささやき合ったという。


しかし道隆が死去すると、「中関白家」に対する世間の風評も急に冷たくなる。


道隆の死後、摂政・関白を継いだ弟の道兼がわずか数日で疫病のために逝去する。


そのため後継者の座をめぐって、伊周と道長が争うことになる。


しかし妹の定子と一条天皇という、強力な後ろ楯を持つ伊周が断然有利であった。


そんな伊周が、とんでもない事件を引き起こすのである。


「長徳の変」と呼ばれるこの事件は、996年長徳2年正月に故藤原為光の邸宅で起こった。


内大臣の藤原伊周はこの邸宅に住む為光の三女を、愛人にしていた。


ところが天皇を引退して出家していた花山法皇は、偶然にも為光の四女を愛人にしてちょくちょく通っていたのである。


伊周は法皇が、自分と同じ三女のもとに通っていると勘違いした。


そのため伊周は法皇を懲らしめようと弟の隆家に命じて、法皇に矢を射かけたのである。


やがて伊周と法皇の従者同士が乱闘となる。


すると伊周たちは、射殺した花山法皇の従者二人の首を切り落として持ち去っている。


また伊周らが放った矢の一本は花山法皇の衣をかすめたが、法皇の命に別状はなかった。


法皇もさすがに女性が絡んだスキャンダルを公表する訳にはいかず、その後は沈黙を続けた。


しかし、法皇が伊周たちに狙われたという噂は、たちまち京じゅうに広まっている。


道長が伊周追い落としのために詳細を調べ、検非違使別当の藤原実資に報告したのである。


先の天皇である花山法皇に矢を射かけては、そのままですむはずもなく、伊周と弟の隆家は政界を追われた。


大宰府へ配流された伊周と隆家だが、道長に約一年ほどで許され、997年長徳3年に都へ還されている。


しかしこの時点では、二人の政界復帰への望みはほぼ絶望的であった。


ところが、中宮定子が999年長保元年に一条天皇の第一皇子・敦康親王を生んだことで「中関白家」復活の可能性が浮上する。


もし将来、敦康親王が帝位につけば、道長を追い落とし、伊周たちの一発逆転が可能となったのである。


しかしなかなかその機会が訪れないため、伊周はじっくりと待てば良かったのだが焦ってしまった。


伊周が伊勢国を基盤とする武士の平致頼を抱き込んで、「道長暗殺」を計画しているとの噂が広まった。


1007年寛弘4年8月2日に平安京を出発して大和国の金峰山へ参詣中の道長に対して暗殺を実行するというのである。


しかしこの計画は、幸か不幸か未遂に終わっている。


結局、道長の娘・彰子が一条天皇の二人の皇子を生んだため、敦康親王が天皇になることはなかった。


藤原伊周は失意のうちに1010年寛弘7年正月、37歳で没している。


なお弟の隆家はその武勇をかわれ、権中納言にまで復帰して、公卿会議への出席を許されている。


隆家は、「刀伊」と呼ばれる異国の海賊集団が九州を襲った時、大宰権帥として奮戦して撃退している。


この「刀伊の入寇」といわれる事件は、数千人の異国人が日本へ攻め入って来るという危機であった。


隆家は、この国難とも言える危機を救った英雄であった。


藤原隆家は1044年長久5年1月1日、66歳で逝去している。


隆家の子孫はその後、皇室や摂家に血を残し、現在にまで連なっている。

【藤原道隆と子供たち】ユーチューブ動画