花山天皇は藤原兼家に謀られて、わずか2年で退位を余儀なくされた不運な天皇であるが、父の冷泉天皇と同じく、生涯奇行や異様な言動を繰り返した。


花山天皇の生涯と最期を詳しく見ていこう。


第65代の花山天皇は、諱を師貞と言い、968年安和元年、冷泉天皇の第一皇子として生まれた。


母はのちの摂政・藤原伊尹の長女・懐子である。


師貞親王が誕生した翌年に、以前から異常な行動を繰り返していた父の冷泉天皇が譲位し、円融天皇が践祚する。


師貞親王は2歳にして皇太子に立てられ、将来が約束された。


しかし972年天禄3年に祖父の摂政太政大臣・伊尹が死去したため、幼い皇太子は大きな後ろ楯を失ってしまう。


円融天皇は藤原兼家の娘・詮子との間に生まれた懐仁親王を皇太子にする条件で退位する。


師貞親王は、984年永観2年に皇位につき花山天皇となったが、まだ17歳の若 さであった。


さらに花山天皇には母方には有力な後見がなく、その地位は、初めから不安定であった。


一方の藤原兼家は、花山天皇が懐仁親王が誕生するまでの「つなぎ」だと考えていた。


若い天皇は叔父の藤原義懐を蔵人頭に抜てきして、政を行った。


しかし前例を無視する花山天皇の強引な手法に、兼家たちは抵抗して、政は完全に停滞する。


この結果、若く多感で、しかも強力な後ろ楯を持たない天皇は、将来に絶望する。


ちょうどそんな時に、最愛の女御の藤原忯子が懐妊中に没するのである。


いよいよ絶望の淵に追いつめられた花山天皇は、一日中泣いて過ごすなど奇行が目立つようになる。


天皇の様子を見た右大臣の兼家は、蔵人として天皇の側近に仕えていた息子の道兼に策略を授ける。


「私も一緒ですから出家しましょう」と天皇にすすめて退位させる方策である。


道兼を信じたまだ若い19歳の花山天皇は、986年寛和2年6月22日の深夜、道兼の誘導によってひそかに宮中を抜け出す。


そして山科の元慶寺に赴き、そこでにわかに花山天皇は剃髪する。


いっしょに出家すると言っていた道兼が逃げたことで騙されたと知った花山天皇だが、譲位するほかはなかった。

出家後の花山法皇は、性空上人の説法をききに播磨国の書写山の円教寺に赴いている。


また法皇は延暦寺で受戒するなどして、ひたすら念仏三昧の生活を送った。


さらに法皇は熊野で那智の滝のそばに庵をたてて、厳しい修道を数ヶ月に渡って行っている。


修行を終えて京に戻った花山法皇だが、素行が改まるどころか修行で抑制した分が余計にひどくなったようだ。


法皇は、乳母の中務に通じて皇子・清仁を産ませ、さらに中務の娘の平子にも皇子・昭登を産ませている。


法皇の好色という性癖は修行によって変わるどころか、以前にもまして激しくなったのである。


そしてついに花山法皇はその性癖によって、矢を射かけられて、暗殺されそうになっている。


996年長徳2年4月10日、「長徳の変」と呼ばれるこの事件の現場となったのは、故藤原為光の邸宅であった。


実は花山法皇は、為光の四女が法皇の愛人になっていたからである。

ところが同じ邸宅に住む為光の三女を、愛人にしていたのが内大臣の藤原伊周であった。


伊周は法皇が、自分と同じ三女のもとに通っていると勘違いした。


そのため伊周は法皇を懲らしめようと弟の隆家と法皇に矢を射かけたのである。


放たれた矢の一本は、法皇の衣をかすめたが、驚いた法皇はあわてて逃げ帰っている。


花山法皇が口をつぐんでいたにもかかわらず、事件はたちまち世間の噂となった。


これはいち早くに事件を知った藤原道長が、検非違使別当であった藤原実資に、事の詳細を手紙で知らせた。


そして道長は、世間の噂にもなるように仕組んで、伊周追い落としの口実にしようとしたのである。


結果は、ライバルであった伊周と隆家は追放となり道長の思い通りとなっている。


父親の道隆に続いて、伊周と隆家という兄弟がいなくなり、後ろ楯をなくした中宮定子の威光は急激に衰えていく。


道長は定子にかえてわが娘彰子を一条天皇の中宮として、権勢を高めていく。


花山法皇は間接的にではあるが、藤原道長が最高権力者の地位に到達することに手を貸したことになる。


それはともかく、常日頃の法皇は、独特な絵を描いて世人の注意をひき、建築や造園にも優れた技量を持っていた。


また和歌に関しては、当代屈指の歌人であり、藤原公任や藤原長能らが参与した歌壇をつくり、しばしば歌合せを催した。


また公任に命じて『拾遺抄』を選定させている。


花山法皇の生涯は、狂気と天才が日によって交錯するという分裂した、はなはだ悲壮でものであった。


そして若い時からの法皇の好色は、改まることなく、女性を求めて外出する法皇の姿がよく目撃されたようである。


また法皇は、清仁親王には、過度の偏愛を注いでいる。


法皇は親王を喜ばせるために、猿を犬に乗せて人々が大勢往来する街路をたびたび走らせた。


そのため京の人々は眉をひそめながら、法皇の数々の奇行を噂しあった。


ある時、法皇は再び熊野に詣でようとしたが、求道のためではなく、物見遊山の大行列で詣でようと計画した。


そのためさすがに一条天皇が、沿道の人民を煩わすものとしてこれを差し止めている。


波乱万丈の生涯を歩んだ花山法皇が、その生涯を閉じたのは、1008年寛弘5年の2月8日の夜のことであった。


法皇はまだ41歳の若さであったが、崩じた場所は都の左京花山院であった。


花山法皇は当時流行していた天然痘などではなく、体のどこかにできた悪性腫瘍が死因であったようである。


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