藤原道兼は花山天皇を騙して出家させ、自分は逃げたかなりの悪党であった。
しかし道兼の次男は部下を殴り殺し、紫式部の娘との間に子供をもうけながら別れるなど、子供たちは親以上の悪党であった。
親が親なら子も子、という言葉がピッタリの道兼と子供たちのその後を詳しく見ていこう。
藤原道兼は花山天皇が即位すると蔵人、天皇の秘書の一人に抜てきされている。
17歳の花山天皇は当初は貨幣制度を改革するなど、政にも意欲的に取り組んだ。
天皇は叔父の藤原義懐を蔵人頭にして重く用いたため、兼家ら閣僚との間に軋轢が生じた。
朝廷はすでに高度な官僚組織による合議制が確立していたため、独断専行の天皇は浮いた存在となる。
藤原兼家は他の公卿たちと協力して、花山天皇と義懐に抵抗した。
ちょうどその頃、天皇が寵愛していた藤原斉信の妹・忯子が懐妊中に病没する。
花山天皇は公務での行き詰まりと、忯子を喪った悲しみで、うつ病となってしまう。
天皇は忯子のことを思って、一日じゅう涙を流すような日々を過ごしていた。
こんな天皇の様子に目をつけたのが、藤原兼家であった。
兼家は一計を案じて息子の道兼と、花山天皇を騙して出家させる計画を企てた。
道兼は蔵人という立場を利用して天皇に、いっしょに出家しましょうともちかけた。
道兼は自分も出家して末永く お側にお仕えしますから、としきりに天皇に出家をすすめる。
道兼のことばにのせられたまだ二十歳前の天皇は、こっそり御所をぬけだして山科の元慶寺で剃髪をおこなった。
その間、兼家たちは神璽と宝剣を皇太子の部屋に移してしまい、道兼も天皇を寺に置き去りにして逃げ帰った。
その時はじめて道兼にあざむかれことに気づいた天皇は嘆いたが、もはや譲位して上皇になるよりほかはなかった。
わが孫でまだ7歳の一条天皇を即位させた兼家は、摂政・関白に就任して我が世の春を迎えた。
しかし兼家はわずか数年で、関白を長男の道隆に譲って逝去する。
父親のあとは自分が関白になれると信じていた強欲な道兼は、激怒して兼家の葬儀や法要には参列していない。
関白となった道隆は一条天皇の後宮に娘の定子を入れ、清少納言を女房につけている。
しかし道隆は大酒飲みであったために、わずか5年で体調を崩し病死した。
道兼はやっと関白の座を射止めるが、その時すでに蔓延していた天然痘に犯されていた。
35歳の藤原道兼は就任してわずか十日ほどで死去したため、「七日関白」と人々に陰でささやかれた。
道兼にはわかっているだけで4男3女の、残された7人の子どもたちがいた。
娘たちはそれぞれ一条天皇の女御などになっている。
長男の福足君はやんちゃで、親のゆうことを聞かない子供であったが病弱であった。
そのため幼くして死んだので、次男の兼隆が嫡子として育てられた。
だが、この次男の兼隆と三男の兼綱の二人の男子が、かなりの問題児であった。
ところで紫式部には藤原宣孝との間に一粒種の娘・賢子がいた。
賢子が幼い時に宣孝は逝去するが、紫式部に手塩にかけて育てられ賢子は母と同じ彰子のもとに仕える。
ところがこの賢子に近付いた兼隆は、やがて懐妊させて女の子を生ませたようだ。
相手は兼隆ではなく別人だとする説も存在するが、兼隆には正妻がいたため、賢子は妾扱いで、二人はやがて別れたとされている。
ドラマでは、道兼が紫式部の母親を刺殺するというストーリーになっている。
しかし実際は、紫式部の娘・賢子と、道兼の次男・兼隆は子どもをもうけたとされている。
祖母の仇の子どもを生むというのは、通常の神経ではありえない。
ドラマはもちろんフィクションなのだが、違和感を感じるのは私だけではないはずだ。
やがて一条天皇が崩御して三条天皇が即位するが、道長と天皇の関係はギクシャクした。
そのため三条天皇は、第一皇子の敦明親王を皇太子にする事を条件に退位する。
しかし敦明親王とも対立した道長は、敦明親王に皇太子を辞退するように圧力をかけた。
この時に、敦明親王を騙して皇太子を辞退させたのが、道兼の次男・兼隆であった。
兼隆は親の七光りで、中納言にまで出世しているが、父の道兼に似て、粗暴で狡猾な人間であったようである。
藤原実資の「小右記」には、次のような事件が記録されている。
1013年長和2年、兼隆は厩舎人という自分の馬の世話をする従者を殴殺させる事件を起こしている。
兼隆は翌年にも誤って従者らに命じて実資の下女の家を略奪・破壊させ、実資に謝罪している。
兼隆は、評判のトラブルメーカーであったようである。
さらに次男の兼隆に輪をかけたように粗暴だったのが、三男の兼綱である。
道兼の三男として生まれた兼綱だが、父親が没した後は叔父の道綱の養子となった。
道綱も凡庸で有名だが、そんな叔父に育てられた兼綱は元服し、左近衛少将までは一応は順調に昇進している。
ところが1005年寛弘2年の正月には、兼綱は実資の養子であった藤原資平と共に蔵人に暴行を加えている。
さらに兼綱らは、節会で踏歌を行う女性らが使用するはずだった簪や櫛を取り上げてしまう事件を起こし、謹慎処分を受けている。
しかし兼綱は、やがて三条天皇には気に入られて蔵人頭に任ぜられる。
位階も正四位下まで昇り、兼綱は右近衛中将を辞任した兄・兼隆に替わって左近衛中将に任ぜられている。
兼綱は公卿の座を目前にするが、間もなく三条天皇は後一条天皇に譲位する。
やがて兼綱の昇進は急にストップし、蔵人頭を止められている。
この蔵人頭を止められたことに関しては、かつて父・道兼が花山天皇を騙して退位させた。
さらに兄・兼隆が敦明親王を騙して皇太子を辞退させたことが原因となっている。
この道兼の一族は帝を欺く一族として、天皇や皇太子の身辺に近づけてはならない、との風評が立ってきたことが理由であったという。
日本には昔から「親が親なら子も子」や、「親の因果が子に報い」ということわざがある。
道兼親子ほど、この二つのことわざがピッタリな親子も珍しい。
藤原氏の子息は、道兼の息子たちに限らず、道長や実資の権力者の息子や孫たちも一様に、バカ息子が多かった。
藤原能信は道長と源明子の間に生まれたが、驚くほどのバカ息子であった。
1013年長和2年、19歳の能信は大勢の人々が見守る中で、些細なことで貴族と喧嘩となり暴行を加えている。
さらに能信はレイプを行おうとした友人の応援に従者を送ったが、その従者が反対に殺されるという事件も起こしている。
この事件は、1016年長和5年、観峯という僧侶の娘を大学助の大江至孝が襲おうとした。
至孝の大学助とは、大学寮の次官で大学頭を補佐する役職である。
ところが観峯の弟子たちが助けようとしたため、弟子たちと至孝とが取っ組み合いとなった。
かなわないと見た至孝は、友人の能信に助っ人を頼んだため、能信の従者たちが応援に駆けつけ乱闘となった。
そして能信の従者の一人が、師匠の娘を助けようとした勇敢な弟子の一人に殺されるのである。
完全な正当防衛であり、悪いのは大江至孝とそれを助けようとしたした能信とその従者たちであった。
そしてこの事件は、実資の「小右記」だけではなく、道長の「御堂関白記」にもしっかりと記録されているのである。
道長は自分のバカ息子の起こした事件を、どのような気持ちで綴ったのであろうか。
道長の死の4年前の1024年万寿元年7月17日の夜、藤原道隆の孫の経輔は、後一条天皇と御所で相撲観戦をしていた。
しかし経輔は相撲そっちのけで、あろうことか天皇の御前で源成任と取っ組み合いの喧嘩をしている。
喧嘩の原因はささいなことのようであったが、実資が例によって「小右記」に記録している。
1018年寛仁2年、後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」を藤原道長は実現した。
その夜、道長は宴会を催し有名な望月の歌を詠んだ。
普段は道長に距離を置いていた実資は珍しく「素晴らしい歌だ。皆で唱和しましょう。」と三度も先頭に立って唱和した。
しかしこの時、藤原道長と実資は互いの顔を伺いながら、心の底ではどのように感じていたのであろう。
自分たち藤原氏の息子や養子、そして孫たちが方々で事件を起こす姿に、心を痛めて痛めていたのかも知れない。
摂関政治は王朝時代といわれるように、表面上は華麗な貴族文化の華を咲かせた。
ところが裏では貴族の子息たちが、自らの地位にあぐらをかいて、様々な事件を引き起こしていたのである。
そして道長と実資は、陽気に祝杯をあげながら、摂関政治がそう長くは続かないことにも、薄々気付いていたにちがいない。
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