赤染衛門は宮廷で藤原道長などに仕えた歌人だが、80歳になっても若々しく歌会に参加した平安時代の美魔女ともいえる女性である。


赤染衛門の生涯と最期を詳しく見ていこう。


赤染衛門は生没年不詳だが、彼女の和歌などから換算して出生時を推定すると、957年天徳元年頃の生まれと考えられる。


彼女は600首以上の和歌を残しているが、年代別に整理されているため、彼女のおおよその年齢や心の推移などがわかるのである。


赤染衛門という女房名は、その父が赤染時用で、しかも右衛門尉を経たことに起因している。


しかし母親は平兼盛と離婚してすぐに彼女を生んでいるため、実父は兼盛である。


ところが母親は兼盛に彼女を引きことを拒絶して、検非違使の赤染時用に訴えている。


検非違使とは警察と裁判所を兼ねた役所で、強大な権力を持ち皆から恐れられていた。


赤染衛門の母は以前から時用と親しかったようである。


結局赤染衛門は時用の娘として育てられ、成人している。


赤染衛門は年老いてからは、良妻賢母という評判が高まったが、若い頃はけっこう様々な恋愛を経験している。


彼女は二十歳の頃に宮仕えに出たと思われるが、藤原道綱や大江為基と浮き名を流している。


大江為基とは激しい愛の告白を、和歌で交わしている。


しかし彼女が結婚相手に選んだのは為基の従兄弟の大江匡衡であった。


大江家は代々の文章博士の家柄で、匡衡は真面目だがもてるタイプの男性ではなかった。


つまり若い時はけっこう遊び人だった美人の女性が、結婚相手には堅物のお坊ちゃんを選んだという感じである。


しかし結婚当初は、稼ぎの悪い真面目一方の匡衡とは意見が合わず夫婦仲が悪かったようである。


しかし匡衡が受領として、やがて尾張守に出世して経済的に豊かになっていくと、自然と夫婦仲も良くなったことが和歌から伝わってくる。


大江匡衡の人柄については「今昔物語」に次のようなエビソードがのっている。


彼がまだ学生であったころ、管弦の才能はあったが、なにしろ背が高く、おまけにいかり肩で不恰好な青年であった。


そのため、いつも女房どもが嘲笑して、あるとき、匡衡をよんで和琴をさし出して言った。


「なんでもご存じなのですから、これをお弾きになれるでしょう。どうか弾いてくださいな。」


といったところ、匡衡はこう詠みかけた。


逢坂の関のあなたもまだみねば


あづまのことも知られざりけり


「あづまのこと」とは和琴の別名である。


まだどなたとも会わずに男女の契りを結んでいませんので、あが妻という者もおりません、と即答した。


だが、女房たちには教養もなくこの即興の歌に返すような歌才がなかった。


そのためそれ以後は、匡衡のことを笑う意地悪女房はいなくなったという。


秀才の堅物が、いつもからかう意地悪女房をやり込めたという逸話である。


以後この逸話は、人を風貌や衣服などの外見で軽々しく判断し、決してみくびってはならないという戒めで使われるようになっている。


それともかく、赤染衛門は当初は関白藤原道隆の娘で、一条天皇の中宮・定子の女房として仕えた。


同じく定子のサロンには、清少納言がいた。


ところが道隆は大酒飲みで、日頃の不摂生がたたり43歳で死去、さらに続いて定子が逝去する。

一条天皇の中宮は、藤原道長の娘・彰子となった。


道長はその才能を惜しみ、清少納言を宮中に引き留めようとしたが、彼女は拒絶して宮中を去っている。


しかし一方の赤染衛門は彰子のもとに移って、そのまま宮中生活を続けている。


結婚相手の選び方や、転職の仕方などから、赤染衛門がかなり世渡り上手な女性であったことがうかがえる。


彼女は宮中で、常に夫・大江匡衡の名前を売り込むことを忘れなかった。


そのため道長や妻の倫子は、赤染衛門のことを「匡衡衛門」と読んでいた、と紫式部が日記に書いている。


彼女は母親として、息子・挙周の出世についても売り込んでいる。


赤染衛門は息子のあわれを和歌に詠んで、倫子を通じて道長にさりげなくアピールした。


そのため挙周は若くして、文章博士に出世している。


赤染衛門は自分だけではなく、夫や息子を売り込む、天才的なキャリアウーマンだったのである。


平安時代の歴史物語で、仮名による編年体の物語風史書に「栄華物語」がある。


この「栄華物語」は、赤染衛門が中心となって編纂されたとされている。


彼女は藤原道長を頂点とするその前後の時代を80年に渡って生きた。


さらに道長夫人の倫子をはじめ、中宮定子と彰子にも仕えた女房である。


しかも彼女が嫁いだ大江家は、代々大学頭、文章博士で、歴史書の編纂にも精通していた。


ところがこの「栄華物語」は歴史書ではなく、歴史物語としてあつかわれている。


それは「栄華物語」が、あまりにも藤原道長やその一族を、必要以上に持ち上げたタッチで綴られているからである。


この物語を書いた赤染衛門が、藤原氏に手厚くもてなされたゆえんである。


こんなところにも、世渡り上手の一面が垣間見られるが、彼女は藤原氏の庇護のもと老後も裕福に暮らしている。


そして、赤染衛門は曾孫にあたる大江匡房が生まれたことを喜んで、1041年長久2年の弘徽殿女御十番歌合に参加している。


宮中の歌合とは和歌を詠んで勝負を競うゲームで、彼女は一勝一敗で引き分けとなっている。


出家していたため尼僧の姿ではあったが、赤染衛門は若々しく昔の姿を彷彿とさせたという。


この時も彼女は恋の歌を詠み、人びとを驚かせている。


赤染衛門は村上天皇の代から、冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀の八代の朝にわたって生きた。


彼女は歌合のあとに消息がなくなっていることから、85歳を過ぎて逝去したものと思われる。


赤染衛門の生涯は、平安時代の美魔女ともいえる、華麗で見事な生き方と最期であった。

【赤染衛門の最期】ユーチューブ動画