藤原公任は関白太政大臣・藤原頼忠の長男として生まれ、若い時には秀才の名を欲しいままにし、百人一首にも和歌を残している人物である。


藤原公任のその後と最期を詳しく見ていこう。


藤原公任は966年康保3年、関白藤原頼忠の長男として生まれたが、彼の母は醍醐天皇の孫で、妻は村上天皇の孫という家柄であった。


そして家系は藤原北家の嫡流であった小野宮流で、従兄弟には藤原実資や歌人の藤原高遠などがいた。


公任と藤原道長は同い年生まれだが、二人が青年の頃、小野宮流と九条流は激しい権力争いを始める。


982年天元5年、円融天皇の女御であった公任の姉の遵子が、 子のできないまま皇后となった。


この2年前には藤原兼家の娘・詮子が、円融天皇の第一皇子の懐仁親王を生んでいたが女御のままであった。


それは円融天皇は兼家の九条流が、勢力を伸ばすことを警戒して小野宮流の遵子を皇后にしたのである。


そのためこの時はまだ17歳の公任は、皇后の弟として官位が従四位上に進んでいる。


同い年の藤原道長がこの官位に至るのは、やっと5年後のことである。


得意になった公任は兼家邸の前で、「ここの女御はいつ皇后になられるのかな」といい放ち、兼家たちの反感をかっている。

兼家は道隆、道兼、道長の三人の息子を呼び寄せ、「今のままでは、お前たち三人は、公任の影さえ踏めないだろう」と嘆いた。


道隆と道兼の二人はおとなしく反省していたが、道長は「今に影ではなく、公任の顔を踏んでやる」と兼家に啖呵を切っている。


道長は若い頃から、恐ろしく負けん気の強い青年だったのである。


花山天皇が即位すると、なんとしても外戚となりたい公任の父・頼忠は、娘の諟子を後宮に入れている。


花山天皇は和歌に関心が深く、東宮時代から和歌の得意な公任とは親密であった。


そのため内裏の歌合では、公任が講師を務める栄誉にあずかっている。


986年寛和2年10月10日、京都・嵐山の大井川で円融法皇の遊覧が行われた。


その際、漢詩・和歌・管弦の三隻の船を用意し、それぞれその道の達人を乗せて腕を競わせる趣向があった。


すべてに秀でた公任は三隻すべての船に乗る栄誉を与えられ、見事な腕前を披露している。


まさにこの時が藤原公任にとっては、人生の最高潮であった。


しかし花山天皇が、兼家と道兼の陰謀によってわずか二年で退位させられると、状況は一変する。


兼家の孫の一条天皇が即位すると、小野宮流の公任らが外戚となる可能性は絶無となり、九条流の道長らは我が世の春を迎える。


この時公任は、九条流の人々に呼び止められて「そちの子供を生まない素腹の后はどこにおられるのかな」などとからかわれ悔しい思いをしている。


摂関政治とは、入内した娘が天皇の皇子を生むか生まないかで、その一家の浮沈が左右される「博打」のような側面もあったのである。


そのため以後14年の長きにわたり、藤原公任の官位はまったく上がっていない。


それに反して道長は、どんどん昇進を続け、公任をはるかに抜き去っている。


藤原公任は、同輩たちにも出世を追い越されたことを恨めしく思っ て長いあいだ出仕もせず、大納言を辞めようとした。


その公任から部下で赤染衛門の夫・大江匡衡は辞表の代作を依頼された。


匡衡が帰宅し、書きあぐんでいると、妻で才女として知られた赤染衛門が見かねて助言する。


「あの方はたいそう虚栄心の強い 人です。」


「公任様はかがやかしい先祖を持ちながら、今はうだつがあがらないことを嘆かれているのでしょう。」


「そのことを辞表にお書き入れなさいませ」とアドバイスした。


そこで匡衡は妻の助言通りに辞表を書いて提出すると、公任は感嘆して喜び、その辞表をすぐに採用したという。

1005年寛弘2年、道長は娘の彰子が一条天皇の中宮に決定すると、花嫁道具に高価な屏風を作らせた。


そして公卿たちに屏風和歌を詠むように強要した。


元来、屏風和歌は身分の低い歌人が詠むことが恒例になっていた。


そのために藤原実資は詠まなかったが、公任は早々に道長の権力の前に脱帽して和歌を提供している。


同じ小野宮流の実資と公任は、道長への接し方が真逆で対照的であった。


実資は、有職故実という朝廷内や武家などにおける儀式や慣習のエキスパートであった。


そのため実資は権力者として前例を無視しようとする道長に、しきたりを重んじるように諫言して厳しく接した。


一方の公任は、長女を道長の次男・教通に嫁がせ、道長にはうやうやしく仕えている。


道長は公任の顔こそ踏まなかったが、父兼家に切った啖呵を実現させたのである。


公任は娘婿の教通と会う時にも、なにかと気を使ったようである。


従兄弟の実資は、そんな公任の姿を「近頃の公任の態度は追従である」と日記「小右記」に憤慨を込めて記録している。


ところで藤原公任は検非違使別当という、今で言えば警察庁長官のような役職についていた期間がある。

そんな公任には、「北山抄」という儀式書、有職故実の著作がある。


公任が「北山抄」を書きはじめたのは、検非違使別当の任を離れてからしばらく後のことであった。


公任は「北山抄」を書く原稿用紙として用いたのは、不要になった検非違使関連の公文書の裏面だったのである。


紙が貴重であった時代のためだが、そのため平安時代に起こった事件記録が多数残ったのである。


公任自身は、意識したかどうかはわからないが、生き残った一群の公文書は、歴史学者たちの間では、「三条家本北山抄裏文書」と呼ばれている。


この文書には、平安時代が詐欺や窃盗などの事件が絶え間なく起こっていたことが綴られている。


藤原公任は和歌や漢詩以外にも、偶然ではあるが、歴史的に貴重な文書を残したのである。


ところで、道長との政争に敗れ、公任は精神的に深く傷ついたようである。


藤原公任は、1026年万寿3年正月に弟・最円がいる洛北(現在の京都市左京区)の解脱寺で61歳の時に出家している。


病気に悩まされ一足早く出家していた道長が、公任に僧の装束とともに次の歌を贈っている。


「いにしへは思ひかけきや取り交しかく着むものと法の衣を」


昔はちょっとでも 思っただろうか。出家して、僧服を贈り交わしてこのように着るようになるとは、と。


公任は道長へすぐに次の返歌を送った。


「遅れじと契り交して着るべきを君が衣にたち遅れける」


二人そろっ て、僧服を着るように約束するはずだったのに、あなたに遅れて私は僧服を着ることになってしまったのは少し残念である、と。


権力の頂点に立った道長と、それに従うことで自らの才能を生かした公任である。


しかし二人ともが権力争いの場から離れると、昔の同い年生まれの友達同士に戻れたのである。


このやりとりの一年後に、道長は没した。


藤原公任が亡くなったのは、それから14年後の1041年長久2年、享年76であった。


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