清少納言は生没年不詳であるが、清原元輔の娘として生まれている。


元輔は三十六歌仙にも選ばれた有名な歌人だが話術にも優れ、「元祖落語家」ともいわれた人物である。


そして元輔には四男二女がいたが、彼の資質を一番引き継ぎ、期待をかけられたのが清少納言であった。


また清少納言も紫式部も、ブスだったというのは本当だろうか。


清少納言たちや父元輔のその後を詳しく見ていこう。


清少納言は宮中では才女として知られ、様々な男性と浮き名を流した。


「夜をこめて鳥のそらねははかるとも  よに逢坂の関はゆるさじ」


この歌は清少納言が、藤原行成と一夜をともに過ごした時に詠んで、百人一首にも納められている歌である。


内容は、夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかく、この逢坂の関は決して通しませんよ、といったような意味である。


函谷関は中国河南省にあった関所で、逢坂の関は守りの固いことで有名な山城国と近江国の国境にあった関所である。


現代的に言えば、私は他の女のようにそう簡単には落とせませんから、ということである。


清少納言は、一条天皇の中宮定子の女房として仕えた才女であった。


そのため彼女は藤原行成をはじめ、多くの男性貴族たちに言い寄られた。


しかしプライドの高い清少納言は、男たちと恋の駆け引きは楽しんだが、最後の一線はなかなか許さなかったのである。

紫式部も藤原道長に同じような態度をしているが、最後の関所はなかなか許さない、というのが女性が男性にモテル秘訣なのかも知れない。


それはともかく、清少納言と紫式部はブスであった、という逸話が現代では定着している。


しかし平安時代では、女性は自分の容姿を醜いとか美しくないと卑下して書くことが、奥ゆかしい美徳とされていた時代である。


そのため清少納言や紫式部が、時代とともにいつの間にか不美人、ブスとなってしまったようである。


日本の謙遜という美徳が、誤解された一例である。


清少納言が男性との会話を楽しむ余裕を持ちながら、最後は毅然と振る舞った性格は、間違いなく父親の元輔から受け継いだものである。


清少納言の家系は天武天皇にまで連なるのだが、曾祖父の清原深養父は醍醐天皇の時代に活躍した優れた歌人であった。


そして父の元輔も、村上天皇の代に梨壺の五人という撰者に選ばれ、「万葉集」の訓点事業にあずかり、「後撰和歌集」の撰定にも加わった優れた歌人である。


「今昔物語集」には、元輔はとても気さくで、人を笑わせるのが得意な老人であったという、次の逸話がのせられている。


彼は現在では「葵祭」と呼ばれている「加茂祭」で、朝廷の使者として一条大路を馬で通っていた。


しかし馬がつまずいて、元輔は馬から真っ逆さまに転がり落ちた。

彼はすぐに起き上がったが冠が脱げ、ハゲ頭があらわとなった。


当時は貴族が人前で冠を外すことは、裸になることよりも恥ずかしいとされていた。


ドラマで男性貴族たちが、寝室でも冠をかぶっているのは、そのためである。


しかし元輔は冠をかぶらずに、ハゲ頭のままで次のような演説をはじめたので、周囲の人々はゲラゲラと笑った。


「この道は大きな石が多いから、つまずいた馬をせめてやるのはかわいそうというものだ」


「また、冠というものは髪の毛でとめるものだが、わしにはその髪の毛がない。」


「だから馬にも冠にも、だれにも罪はない。」


「だから、皆も笑うべきではないのだ。」といい放つと元輔は、何食わぬ顔でその場を立ち去っている。


そんな洒落気のある元輔は和歌だけではなく、人を笑わせる名人でもあったため「元祖落語家」とも言われた人物であった。


しかし元輔は受領階級のために、ほとんどの生活は都ではなく地方で過ごした。


そのため彼は、50歳を過ぎてから生まれた清少納言を可愛がるとともに、大きな期待を寄せ教育を施したようである。


そして清原家の再興を、彼女に託したのである。


やがて清少納言は、16歳の頃に橘則光と結婚して、翌年には則長を生んでいる。


則光はどちらかと言えば体育会系の人間で、彼女とはあまり話題が合わなかった。


そして子育てが一段落すると、彼女は平凡だが刺激のない暮らしに何か疑問を持ちはじめる。


清少納言は父元輔の期待を思いだし、御所で開催される法話や節会などに積極的に参加しだすのである。


ドラマでは清少納言が藤原道長たちが行う「打毬」を観戦しているが、実際に彼女が正月に「白馬の節会」に参加した記録が残っている。


彼女は雅やかな貴族たちの姿を見て、いつか宮仕えをしたいという強烈な願望に目覚めるのである。


この頃に父親の元輔は、任地先で死去するが、都を離れたままの83歳の生涯であった。


清少納言は父親の期待にこたえるべく、子供を家中の者たちに預けて、宮中の行事には出来るだけ参加して有力貴族たちに顔を売っている。


やがて一条天皇の中宮に娘・定子が決定すると、関白・藤原道隆は、娘の女房・教育係に清少納言を指名する。


993年正暦4年、中宮定子が18歳で、清少納言は28歳の頃だとされているが、彼女は宮中へ上がった。


紫式部がそうであったように、清少納言も宮中に入った当時は恥をかくことが多く、自宅に閉じ籠りがちとなっている。


彼女は「枕草子」に、恥ずかしさと悔しさでその頃は毎夜涙を流していた、と綴っている。


中宮には数百人の女性たちがいたため、人間関係も複雑であった。

しかし、中宮定子はやさしく賢明な女性であったために清少納言は「この人のためならば一生お仕えしよう」と決意している。


やがて清少納言は夫・則光とは離婚して、宮仕えに全勢力を傾けている。


彼女は藤原行成はもとより、藤原公任や藤原斉信など、当時有力であった男性貴族たちと噂になっている。


また、道隆の嫡男・伊周とも交渉があったと言われている。


そのため清少納言は色好み、男癖が悪いなどと言われることもある。


しかし、父元輔に清原家の再興を託された彼女にしてみれば、有力貴族と関係を持つことは再興のための手段に過ぎなかったように思える。


「清少納言の最期」の動画で見たように、彼女の兄弟には殺人のために報復されるような者もいた。


紫式部が頼りない父親や弟のために、宮中に上がったように、清少納言も同じ思いで定子に仕えたのかも知れない。


結局、道隆の死去とともに、定子に代わって彰子が中宮となり、伊周は追放され、道長が台頭する。


定子は一条天皇の皇女を生むが、引き換えに自らの命を落としている。


清少納言は紫式部と入れ代わるように、宮中を去るのである。


清少納言は道長から、彰子の女房になるよう言われたが、亡き定子への忠節を貫き辞退している。


そのため後世に彼女については、老後に落はくした、老醜を晒したという逸話が、数多く残された。


しかし、男兄弟に代わって女性も筆一本で出世出来た時代だ、と考えれば、清少納言が生きた時代は不幸だとも思えない。


女性でも努力次第で、自らの将来を切り開けたのである。


もちろん貴族社会に限ってのことだが、現代の我々が学べる点も大いにありそうだ。


子どもを母親だけではなく、回りの人々がいっしょに育てている。


また男女ともに何回離婚・再婚を繰り返しても、なんの問題もなかった。


有名人だからといって、週刊誌に書きたてられることもなかった。


清少納言もわかっているだけで、三回離婚と再婚を繰り返して、一男一女をもうけている。


平安時代は文化的には、現代よりも勝れていた一面もあったように思えるのである。


【清少納言と父の清原元輔】ユーチューブ動画