藤原詮子は、円融天皇の後宮に入って懐仁親王(のちの一条天皇)を生み、弟の藤原道長を最高権力者に押し上げ、藤原氏の全盛期を迎える足固めをした。
道長の姉・藤原詮子の生涯と最期を詳しく見ていこう。
藤原詮子は962年応和2年、藤原兼家と時姫の次女として生まれた。
詮子は父・兼家の意向で、17歳の時に円融天皇の女御として後宮に入った。
詮子は二年後に、円融天皇の唯一の皇子である懐仁親王を生んだにも関わらず、身分は女御のままであった。
天皇の妃は上から皇后、中宮、女御、そして更衣と四つの身分に分けられていた。
そしてすでに兼家の兄・兼通の娘・媓子が皇后となっていた。
中宮は不在であったが、円融天皇は兼家の増長を警戒して、関白・藤原頼忠の娘・遵子を中宮にした。
そのため兼家と詮子は怒って、懐仁親王を御所から自邸の東三条邸へ連れて帰っている。
中宮となった遵子の兄・藤原公任は、東三条邸の門前で、「ここの女御はいつ皇后になられるのかな」と言って兼家や詮子らを恥ずかしめている。
しかしのちに懐仁親王が天皇に即位すると、公任は兼家らに「そちの産まず女の妹はどこにおるのじゃ」と言い返され復讐されている。
当時は入内した娘が、天皇の皇子を生むか生まないかで、その一家の栄枯盛衰が決定するという、非常にリスクの高い政治形態であった。
やがて円融天皇が体調を崩し、床に臥せた。
ドラマでは兼家が毒を盛らせて、天皇を退位させようとしたという設定であった。
実際は円融天皇は「おこり病」だと記録されており、現代的に言えばマラリアに感染したことになっている。
東宮、皇太子には、すでに天皇の甥の師貞親王がなっていた。
そのため円融天皇は懐仁親王を次の皇太子にすることを交換条件で、師貞親王に譲位することを決意する。
984年永観2年に、17歳の花山天皇が誕生した。
しかし策謀家の右大臣・兼家は、次男の道兼と共謀して、花山天皇を退位させ、わが孫・懐仁親王を帝位につける方法を企てた。
天皇の蔵人となった道兼は、寵愛していた忯子を亡くして悲しんでいる花山天皇に、一緒に出家しましょうと持ちかける。
986年6月23日夜半、ついに道兼は花山天皇を宮中から連れ出すことに成功し、山科の元慶寺に向かう。
その頃宮中では、天皇が行方不明になったために大騒ぎとなっていた。
しかし花山天皇は髪を切り落とし、入覚という法名をたまわった。
次は道兼の番と思いきや、「出家前に父に最後の別れを告げて参ります」と寺を抜け出し、そのまま道兼は現れなかった。
出家した花山天皇は、そこではじめて道兼に騙されたことに気づいたが、後の祭りであった。
宮中の兼家は、息子の道綱と神璽と宝剣を移し、懐仁親王を即位させ一条天皇を電光石火で誕生させている。
摂政となった兼家は、990年に一条天皇が11歳で元服すると、関白に就任する。
皇太后となった詮子は天皇の母、国母として約25年間に渡って政治にも積極的に参加した。
詮子は、女御から中宮をへずに皇太后となったはじめての例とされている。
990年正暦元年、病気となった兼家は、関白職を嫡男の道隆に譲ると、まもなく死去する。
道隆は娘の定子を一条天皇の中宮とし、他の藤原氏の娘たちは入内させなかった。
詮子は円融法皇が崩御すると、落飾してそれまで住んでいた住居にちなみ院号を東三条院と号した。
これは、わが国の女性の院号の第一号だといわれている。
翌年に詮子は、兄弟の中では一番気が合った道長の土御門邸に住居を移した。
このため母・詮子を敬った一条天皇も、たびたび土御門邸を訪れることになり、道長の権威も自然と高まった。
一条天皇は母親の詮子を敬う、心のやさしい人物であった。
清少納言は「枕草子」で、一条天皇が石清水八幡宮への行幸から帰るさい、礼儀を尽くして詮子にきちんと挨拶している姿を称賛している。
道隆は関白就任からわずか5年で、体調を崩し、あっけなく43歳の若さで死去してしまう。
藤原氏にはもともと糖尿病の遺伝を持つ者が多いが、道隆は無類の酒好きで寿命を縮めたようである。
兄の後を継いだ道兼は、当時流行っていた疫病に罹患していたようで、関白就任後わずか数日で死去している。
そのため道兼は「七日関白」と呼ばれた。
次に誰が引き継ぐかということが問題となった。
一条天皇は、寵愛する定子の兄で道隆の嫡男・藤原伊周を推していた。
しかしこの時、詮子は一条天皇の寝所にまで詰めかけ、徹夜で涙ながらに後継者は道長にするよう訴えた。
実は伊周の母は、才女として名高い高階貴子であった。
もしも伊周が関白になれば、藤原氏ではなく、貴子の実家の高階家が勢力を伸ばすことになる。
詮子の必死の訴えに、ついに一条天皇は折れ、藤原道長が後継者に決定した。
藤原伊周は弟の隆家と、花山院に矢を射かける事件を起こしたこともあり、都を追放される。
伊周の罪状には「詮子を呪詛した」ということも含まれていた。
やはり詮子は、道隆の子供たちからは、かなり恨まれていたようである。
父・道隆に続いて兄の伊周と隆家という後ろ盾を失った定子は出家して、やがて逝去している。
ところで、もともと体の弱い詮子は、数年前に大病を患い、生死の淵をさ迷っている。
もしもその時に詮子が死んでいれば、道長が最高権力者となることはおそらくなかったはずである。
のちに道長は娘の彰子が、一条天皇の皇子を二人も生んだことで、藤原氏の絶頂期に立ち会うことになる。
詮子と彰子という二人のあきこという女性が、藤原道長を最高権力者に押し上げたといっても過言ではない。
1002年長保3年、病状が悪化した詮子のために、陰陽師の安倍晴明が呼び出された。
占いでは方忌といい、方角が悪いと出たために、詮子は寝台とともに土御門邸から東三条邸に移された。
さらに方忌と出たため、最後に東三条院詮子は、院別当・藤原行成の邸宅に移され、そこで逝去している。享年41であった。
一条天皇と藤原道長の悲しみは大きかった。
道長は姉・詮子への報恩のために、両親に準じて法要を行い、彼女への恩に報いている。
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