源倫子は左大臣・源雅信の娘で、曾祖父は宇多天皇だという高尚な家柄に生まれ、藤原道長の正妻となった。


しかし道長には源明子という醍醐天皇の孫で、倫子よりもさらに高貴な妻がいた。


なぜ倫子は明子を差し置いて正妻の座を射止め、自分の娘四人すべてを中宮とすることが出来たのだろうか。


源倫子の生涯とその最期を詳しく見ていこう。


道長の二人の妻については、倫子が正妻で、明子は一段低い地位にあったと言われてきた。


それは藤原実資が書いた「小右記」に、倫子は「北方」、明子は「高松殿」と呼ばれていたという記述に基づいてである。


しかし倫子に対して明子が出自の点では、勝るとも劣るとは思えない。


血筋から考えれば、醍醐天皇の孫である明子は、宇多天皇のひ孫の倫子よりも勝っているとも言えるのである。


「大鏡」には道長には正式な妻が二人いた、と書かれている。


ではなぜ、倫子が道長の正妻となり、明子はなれなかったのだろうか。


また平安時代は、妻が複数いる場合に「正妻」はどのような方法でいつ決定したのだろうか。


たとえば、道長の兄・藤原道隆の場合、彼も父親の兼家に似て、恋多き男性であった。


道隆には多くの妻がいたが、高階貴子が特に気に入ったので正妻である北の方に決めて、三男四女をもうけている。


通常は結婚前に正妻を決定すると思われるのだが、道隆の場合は結婚後に正妻を決めている。


したがって平安時代中期には、まだ正妻の決定時期についてははっきりと決まっていなかったと考えられる。


実は倫子と明子の場合、出自ではなく、儀式婚と私通婚の違いであったとされている。


「儀式婚」は当時の正式な婚礼儀礼に乗っ取って結婚することである。


結婚当日、新郎が新婦に恋文を届け、夜になると「花婿行列」で新婦の家に訪れるなどの手順をふむ。


当時は日本古来の男が通う妻問婚から、婿入り婚に変化していたので新郎が新婦の家に住みつくのである。


「私通婚」とは、正式な儀式をへないで結婚することである。


道長は倫子とは儀式婚で結ばれたが、明子とは私通婚であった。


源明子は父で左大臣・源高明の娘として生まれ、祖父は醍醐天皇であった。


ところが969年、父の高明は藤原氏との政権争い「安和の変」に敗れて流罪となった。


そのため幼い明子は叔父の盛明親王の養女となるが、叔父の死後は道長の姉・詮子の庇護を受けている。


この「安和の変」は本当は醍醐天皇の息子・源高明を失脚させるために藤原氏が仕組んだ謀略だといわれている。


そして当時は「怨霊信仰」があったため、高明の娘・明子を藤原氏の詮子が保護したのである。


明子が年頃となると、道隆と道兼の二人が恋文を送っている。


しかし詮子はひいきにしていた道長に、明子のもとに通うことを許している。


道長と明子は私通婚で結ばれ、四男二女をもうけている。


明子と倫子のどちらが正妻の座を射止めたかは、血統や家柄ではなく私通婚か儀式婚かという点で決定したのである。


一方の正妻の倫子は、道長との間に二男四女をもうけるが、四人の娘すべてを中宮にし、藤原摂関政治の黄金期を現出させる。


さらに倫子の二人の息子、頼通と教通は、ともに関白まで上り詰めている。


それに引き換え、明子の子供たちは、中宮になった娘はおらず、四人の息子は一人も関白になっていない。

この差は、倫子の父・雅信が道長を土御門邸という豪邸に入れ、出世のバックアップを行ったためでもあった。


やはり父親が現役の公卿と流罪人という差は、いかんともしがたかった。


しかしこの待遇差に、明子の息子・能信や顕信は、倫子の息子・教通の従者に危害を加えるなど素行が悪く、出家させられたりしている。


倫子は藤原北家の九条流の家庭内とでもいうべきところで、様々な問題が起こって苦労したようだ。


999年長保元年、倫子は娘の彰子が、わずか12歳で一条天皇の中宮となると、彰子を支え続けた。


倫子は紫式部とは再従姉妹で、邸宅も隣同士であった。


そのため紫式部が彰子の女房となったのも、何らかの道長への倫子のアドバイスがあったからだと考えられる。


倫子は非常に活発な女性で、清少納言が書いた枕草子にもたびたび登場している。


道長と土御門の邸宅で同居していた倫子は、邸宅からあまり出歩かない普通の貴族の女性とは違い、道長と自邸と内裏を盛んに往復した。


一方の明子は、倫子に遠慮してか、ほとんど公的な場には顔を出していない。


道長の時にピークを迎えた摂関期における権力構造は、とても不安定で不確定な要素をはらんでいた。


つまり摂関政治とは、自分の娘を天皇の中宮とし、皇子が生まれて帝位に着けてはじめて外戚として権力者となれるという偶然がものを言う世界であった。


そのために不可欠なのは、妻がまずは天皇の妃となる娘を生むことだ。


そして次にその娘が、未来の天皇たるべき皇子を産むことがすべてである。


藤原道長は宴席で我よの春と「望月の歌」を詠みあげたが、それを可能にしたのが正妻の倫子であり、娘の彰子たちであった。


言い換えれば、道長は倫子や彰子らのかつぐ御輿に乗った「幸運な男」に過ぎない、とも言えるのである。


現代でも不妊治療で結果を出すのはなかなか難しい。


それが平安時代に、摂関政治は出産という偶然の上に成り立っていた、非常に不安定な政治形態であった。


そのため不安定な摂関政治はすたれ、やがて平氏や源氏の武士たちが台頭してくるのである。


ところで倫子の家系は長寿で、母の穆子は86歳、倫子は90歳、そして娘の彰子は87歳まで長生きしている。


倫子は、若い頃から糖尿病などで病気がちであった道長を支え続けた。


1018年寛仁2年、 道長は三女の威子が天皇の中宮となると、摂関政治の最盛期を迎えた。


彼は祝宴で「望月の歌」を詠んだが、その時すでに糖尿病性網膜症で道長はほとんど目が見えていなかった。


彼は本当の月は、欠けているかどうかは見えていなかったのだ。


そんな夫を支えながら、黒髪も美しく、見た目も若々しい倫子は、気働きをしながら明るく振る舞っている。


紫式部も何度も倫子に、贈り物や手紙をもらったことを日記に書きとめている。


藤原道長が亡くなってから21年後、摂関政治は徐々に斜陽に向かうが、源明子は1049年永承4年に80過ぎで亡くなっている。


そしてそれからさらに4年後、源倫子は女性としては破格の従一位となり、1053年天喜元年、90歳で天寿をまっとうしている。


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