藤原実資と言えば藤原道長の「この世をば我が世とぞ思う望月の・・」という歌を日記に書き止めた人物として有名である。


実資は道長が権力を握っても媚びへつらうことなく、自らの信念をつらぬいた。


藤原実資の生涯とその最期を詳しく見ていこう。


藤原実資は藤原北家の嫡流である小野宮流の公卿・藤原斉敏の子として957年天徳元年に生まれている。


祖父の実頼は道長の祖父・師輔の兄であったが、父の斉敏は道長の父・兼家に押されて、参議どまりであった。


そのため小さな頃から聡明であった実資は、祖父・実頼の養子となり、小野宮と呼ばれる広大な邸宅と莫大な遺産や文献などを相続している。


実資は道長より9歳年上で、二人は再従兄弟同士であった。


実資の祖父・実頼は村上天皇には左大臣として、冷泉天皇には関白として仕えた優秀な人物であった。


ところが入内した実頼の娘には皇子が生まれず、娘が皇子を生んだ弟の師輔に先を越されてしまう。


以後師輔の九条流藤原氏が政治の主導権を握り、実頼の小野宮流は後塵を拝することになった。


そのため小野宮流は、政治権力の中枢に立つことよりも、学問で家名をあげる道を選んだようである。


実資は実頼の残した日記「清慎公記」をもとに自らの日記「小右記」をあらわした。


「小右記」とは、小野宮流の、右大臣実資の、日記、という意味である。

実資は公卿たちに礼儀や作法を尋ねられると、丁寧に過去の文献を調べて教え、日記に記録した。


その結果、実資は「有職故実」という朝廷内における儀式や習慣に関するエキスパートとなっている。


「小右記」は現在残されているものだけでも、400ページづつの16巻という長大な日記である。


実資は天皇の秘書役である蔵人頭としても、代々の天皇に仕え厚い信頼を寄せられている。


そのためのちに藤原道長が権力を握った時も、実資なしに朝廷行事を執り行うことが出来ず、彼を袖には出来なかった。


実資は慣例を逸脱することにはうるさいため、政治権力を一手に握り独裁色を強めようとする道長とはことあるごとに対立した。


また実資実務能力に優れていたが、蹴鞠の名人としても、名を残している。


実資は学問のみならず、997年長徳3年には、賀茂祭の余興として自邸で蹴鞠の会を開き、大江匡房からは「当世の名人」と評されている。


999年長保元年、道長は12歳の娘の彰子が、一条天皇の中宮にきまると、その花嫁道具として高価な四尺の屏風を作らせた。


そして道長は三位以上の上達部に、その屏風に添える和歌を詠むことを求めた。


実資はすぐに断ったが、しばらくの間、非常に不愉快な日々を過ごした。


10月23日、参議の源俊賢が道長の使いとしてやってきて、屏風和歌の題をさずけてきた。


そして実資に「和歌を詠め」との道長の仰せであると伝えたのである。


実資はまったく失礼な 話だと思ったが、ほかの上達部は何も言わずに題を受けとっているという。


さらに数日すると諸卿が屏風和歌を道長のもとにもってきて、そこで歌の撰定がおこなわれた。


集まった 歌のなかから、屏風のそれぞれの画面にふさわしいものを、一首また一首と撰んでいくのである。


翌日、 実資はこの話を聞いたが、和歌を献上した人びとは、花山法皇をはじめとして、藤原斉信といったそうそうたるメンバーである。


当時、屏風和歌というものは、身分の低い専門の歌人が詠むものと決まっていた。


それを道長は、自分の娘の入内の祝いとして公卿たちに和歌を詠ませるとは、全く前例がない暴挙であった。


そのうえ花山法皇の歌まで所望するとは僭越きわまりない、と実資はおおいに憤慨した。


最後には道長自身も和歌を詠み、実資は再度、和歌を詠むように催促されたが断っている。


しかし実資にとっては、同じ小野宮流の藤原公任までが和歌を献じていることが許しがたかった。


実資は公卿たちが群れをなして道長に尻尾を振る姿を見て、追従ではないか、だらしないと日記に書いている。


実資は道長から何度言われようとも、和歌を詠むことを最後まで固辞し続けた。


一条天皇が33歳という若さで没したため、三条天皇が1011年寛弘8年に即位する。


三条天皇はすでに37歳となっており、妃には道長の娘の妍子と、故大納言藤原済時の娘の娍子がいた。


道長は娘の妍子を中宮としたが、若い妍子には三条天皇の子供がなかったが、娍子にはすでに6人もの子供がいた。


そのため三条天皇の要望で、娍子が皇后となることに決定し、翌長元元年4月27日に立后の儀式が執り行われることになった。


すると道長は、わざと同じ日に娘妍子が東三条第から内裏へ参上する日として、上達部が式に参加しないようにしている。


そのためにほとんどの公卿たちは、道長に遠慮して立后の儀式には参加しなかった。


これを知った実資は道長のやり方に激昂し、わずか三人の公卿たちとともに、娍子の立后の儀式に参加している。


実資はこの日の思いを、
天に二日なく、土に二主なし、よって、巨害をおそれざるのみ。
と「小右記」に記している。


藤原道長は、一条天皇と定子との間に生まれていた第一皇子の敦康親王を差し置いて、彰子との間に生まれていた第二皇子の敦成親王を皇太子にする。


これには定子亡き後、敦康親王を手元で育てていた娘の彰子でさえ異を唱え、道長への不信感を募らせている。


結局三条天皇は道長との確執を埋めることが出来ず、5年ほどで退位している。


彰子が生んだ後一条天皇が即位すると、道長は外祖父としてさらに権勢をふるっている。


しかし彰子は父の道長よりも実直で、慣例を守ろうとする実資に好感をよせた。


実資も後一条天皇の国母としての威厳を保つ彰子を「賢后」と呼んで評価し、彼女のもとにたびたび相談に訪れている。

彰子と実資の取り次ぎには、必ず紫式部が担当している。


「小右記」にはたびたび紫式部らしき人の名前が登場する。


実資は一条天皇を亡くした悲しみに浸る彰子の元を訪れ、紫式部とともに涙を流すなどのやさしい一面を見せている。


ところが「小右記」に1013年を境に、紫式部らしき人物の名前が突然現れなくなる。


そのためこの頃に、紫式部が逝去したとする学説が存在する。


しかし日々権力争いに明け暮れる政治家である実資が、権勢の衰えた前の天皇の妃を訪れなくなることは自然である。


実資の日記に紫式部が登場しなくなったからといって、この頃に彼女が死去したとするのは早計と思われる。


やはり賢明な政治家としての実資は、最高権力者となった道長と対立するばかりではなかった。


場合によっては、実資は協調することも忘れてはいない。


1018年寛仁2年、道長は娘の威子を後一条天皇の中宮として「一家立三后」、天皇3代の皇后をすべて自分の娘にすることに成功する。


この日の祝宴で道長は有名な「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば」という歌を詠んだ。


実資は自ら三度もこの歌を先頭に立って唱和して、道長のために場を盛り上げている。


実資と道長は、ともに嫌い憎しみあいながらも、自らの権力を維持していくためには、不可欠な相手だと認め合っていたのである。

実資が71歳の時に、道長が62歳で死去する。


道長の後を継いだ頼通は26歳で摂政となるが、経験不足であった。


そのため30歳以上年が離れた実資に、頼通は政治に関わる様々な相談をしている。


その時も実直な実資は、前例に乗っ取った適切な助言を頼通に与えている。


実資は村上天皇から後冷泉天皇までのなんと9代の天皇に仕えた。


そして右大臣にまで上りつめた藤原実資は、1046年永承元年に90歳で天寿をまっとうしている。


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