清少納言といえば平安時代中期に「枕草子」を執筆して、「源氏物語」を書いた紫式部とともに活躍した日本を代表する女流作家である。


しかし彼女の生涯は、紫式部と同じく謎に包まれた部分が多い。


その謎の一つに、清少納言の兄は、平安京の白昼に自宅を襲撃され殺されるという残酷で奇妙な最期を遂げているのである。


そしてその時に50歳前後の清少納言も兄の家に同宿していたため、危機一発の目にあっている。


はたして清少納言とその兄とは一体、何者だったのだろうか。


そして清少納言はその後どうなったのだろうか、彼女の謎に満ちた晩年と最期を見てみよう。


清少納言は966年ころ、受領階級の中級貴族・清原元輔の娘として生まれている。


父親の清原元輔は、官位は従五位上・肥後守だが、三十六歌仙にも選ばれた有名な歌人であった。


清少納言は、若い頃から学識を身につけ、藤原道長の兄・道隆の娘で一条天皇の中宮であった定子の女房となっている。


彼女は宮中で「枕草子」を執筆するなどして、多くの優秀な女房の中でも才女として称えられている。


しかし関白道隆に続いて1001年長保3年に中宮定子も他界したことから、清少納言は宮中には居ずらくなる。


彼女は彰子からの出仕の誘いを断って、親子ほど年が離れた藤原棟世と再婚して宮中を去る道を選んだ。


その後の清少納言の消息については、ほとんど記録に残っていない。


ところがある事件に彼女が関ったことで、十数年後に清少納言という名が記録に突然に現れるのである。


それは藤原道長の日記「御堂関白記」の、1017年寛仁元年3月8日付けの事件記事である。


この記事によれば、事件は次のような経緯で起こっている。


事件当日、7~8騎の騎馬武者が白昼の平安京を疾駆し、その後を数十人の徒歩の兵士が六角小路と福小路の交わる一軒家を取り囲んだ。


この家の住人こそ、清少納言の実兄で前大宰少監清原致信であった。


襲撃した一団は清原致信をその場で報復ため射殺して血祭りにあげると、堂々と引き上げいったいという。


兄・致信の家に同宿していた清少納言は、女性のために見逃されなんとか無事であったようである。


しかし白昼に都の真ん中で、しかも衆人環視のもとで、人が殺されるとは一体どういうことだろうか。


実は、清少納言の実兄・清原致信の殺害(復讐)事件は次のような事情で行われた。


1013年長和二年に大和守に任命された藤原保昌は、受領国司として大和国に赴いた。


保昌は他の受領がそうであるように、大和の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようと画策した。


保昌は受領として、大和国において不当に課税したり恐喝や詐欺などで巨万の富を築いた悪党である。


しかしそんな保昌に歯向かおうとしたのが、大和国に住んでいた当麻為頼という人物である。


為頼は大和国の有力な正義感あふれる豪族の一人であり、受領として悪辣な行為を繰り返す保昌と対峙する。


大和守保昌との確執を深めた為頼は、やがて保昌の配下によって消されることになる。


このとき、保昌から為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、前大宰少監清原致信、つまり清少納言の実兄であった。


清少納言の兄・致信は、保昌が大和国において財を成すことを助けるため、保昌に命じられるままに為頼の殺害を実行した。


そして、それは、致信が大和守保昌に郎等として仕える身であったからに他ならない。


なお、致信が仕えた大和守・藤原保昌は、かの有名な平安のプレーガール・和泉式部の夫である。


和泉式部は夫の橘道貞が和泉守に任じられてから、和泉式部と呼ばれた。


彼女は夫と別居後、冷泉天皇の親王など、次々と親王から求愛され、浮き名を流した名うての女性である。


そして和泉式部が再婚した相手が、大和守・藤原保昌であった。


そのため当然のことながら、致信が保昌から与えられた汚い仕事は、為頼の抹殺だけではなかっただろう。


保昌が企図した法外な課税をはじめとして、恐喝、詐欺や公費の横領などの実行に致信はあたったはずである。


どちらも有名な平安歌人・清少納言と和泉式部の兄と夫は、ともに悪党でしかもグルだったのである。


清少納言と和泉式部が、兄や夫が影で殺人などに手を染めていることを知っていたかどうかはわからない。


しかし、長年の間同じ家で生活をすれば、兄や夫がどのような仕事をしているのかは、徐々に見えてくるはずである。


彼女らは「枕草子」や「和泉式部日記」に王朝貴族社会の豊かさを描き、その中で生活した。


しかし、その豊かさは、実際は肉親たちが不正行為や、場合によっては殺人まで行って築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。


大河ドラマでは紫式部の父親・藤原為時が受領階級でありながら、家庭は貧しく描かれている。


受領階級であっても、悪辣・非道なことを平気で出来る人間しか、財は成せなかったのである。


紫式部の時代には、彼女と同じ中級貴族の受領階級にも、ヤクザのような非道で残虐な人々が存在した。


そしてやがて平氏と源氏が勃興して、戦乱の時代へと推移していくのである。


それはともかく、学者肌の為時は悪辣な行為には手が出せず、そのために紫式部の家庭は長く貧しかったのかも知れない。


宮中を去り再婚した清少納言は、藤原棟世が摂津守であったため、摂津に移り住んで優雅な暮らしたと思われる。


この地で彼女は娘・小馬命婦をもうけ、また数年間にわたり「枕草子」に手を加えていたようだ。


しかし夫とは死別したといわれ、優雅な生活も終わり清少納言は京都に戻った。


そして出家して兄の致信を頼り、同宿していた彼女は、目の前で兄を殺されるのである。


自らも命を狙われたという清少納言だが、なんとか危機を脱している。


そしてその後の彼女の晩年や最期は、逸話や各地での伝説でしか知ることが出来ない。


清少納言は若い頃には華やかな宮中での生活と、晩年には肉親を目の前で殺されるという経験をする。


そのため清少納言の波乱万丈の生涯を思えば、彼女が人生に諸行無常を感じたのではと推察する。


彼女には最初の夫・橘則光との間に長男・則長と、藤原棟世との間に長女・小馬命婦の二人の子供がいた。


そのため清少納言は晩年には子供たちの世話になりながら、それなりの生活をしていたと考えられる。


彼女の晩年には、人里離れたあばら家に住み、顔は鬼のような形相であったなどの伝説が数多く残されている。


これらは若き日の華やかな清少納言を知るものが、やっかみもあって流した噂の類いだと思われる。


しかし、年老いた清少納言自身が一番、人生の栄枯盛衰を感じていたのではないだろうか。


【清少納言の最期】ユーチューブ動画