藤原道長は息子の頼通とともに、平安時代中期に藤原氏の摂関政治の全盛期を築いた。


そのため道長は、権力を欲しいままにした人物の代名詞のようになっている。


しかし彼の晩年は病に苦しみ、幸福とはいえない最期を迎えたようである。


藤原道長の最期を詳しく見ていこう。


1018年寛仁2年10月16日、53歳の藤原道長は人生最高の日を迎えた。


この日に道長の娘・威子が、後一条天皇の中宮におさまり、酒宴が催された。


彼の長女彰子は一条天皇に、次女妍子は三条天皇に嫁いでいたため「一家立三后」となったからである。


「一家立三后」とは、天皇三代の皇后をすべて自分の娘で独占することである。


藤原道長は、この宴席で有名な「此世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしとおもえば」という歌を詠んだと言われている。


ところが道長は「御堂関白記」という日記をつけているが、そこにこの歌は書かれてはいない。


また道長と親しい紫式部も、「紫式部日記」にこの歌が詠まれたことについては触れていない。


唯一、道長の最大のライバルであった藤原実資だけが、自らの日記「小右記」にこの有名な道長の歌を書き残している。


さすがにプライドの高い道長も、あまりにも自己肯定感があふれたこの歌を、自らの日記に書くことは憚ったのであろう。

しかし実資がこの歌を日記に書き残したことで、藤原道長という人間が、傲慢な人物だという評価が後世に定着したことは間違いない。


道長は実資に、これは即興で詠んだ歌で、前から用意した歌ではないとわざとらしく念を押したという。


そして実資は、道長にいっしょに三度も宴席で、この歌を唱和させられて辟易したことを日記に綴っている。


またこの酒宴で道長は実資に、「近ごろそなたの顔がよく見えない」と言ったという。


実資が「それは昼ですか、夜ですか」と尋ねると、道長は「どちらもだ」と答えたとも日記に記している。


道長は長年の美食と大酒がたたり、中年過ぎから飲水病、いわゆる糖尿病を患っていたようである。


藤原氏には家系的にも糖尿病を発症しやすい体質と環境があった。


この事から、医師の篠田達明氏は「日本史有名人の臨終図鑑」で、道長は2型糖尿病だと診断している。


中年以後に生活習慣病として、発症する糖尿病である。


篠田氏は道長はすでに、糖尿病性網膜症をおこしていて、ほとんど目が見えなくなっていたと診断している。


道長は62歳で逝去するのだが、それはまだ9年後のことである。


藤原道長は、この時すでに月がぼやけて、欠けているかどうかはっきりと見えていなかったのではないだろうか。


それはともかく、道長はこの年の夏、にわかに胸に激痛を覚え、あまりの苦しさに悲鳴を上げている。


医学が未発達な当時は、このような病は、呪詛や怨霊、鬼やもののけが引き起こすとされていた。


そのため安倍晴明らが盛んに厄除けの祈祷を行い、道長の病状は少し改善されたという。


しかし翌年には、再び激しい胸の痛みが道長を襲った。


その後も頻繁に胸の痛みを感じた道長は、自らを「撹乱」だと診断し、呪詛や怨霊が災いしていると考えた。


また道長は「御堂関白記」に、「近ごろは数十センチ離れた人の顔もよく見えない」と記している。


さらに膝の痛みで歩けなくなり、出仕出来なくなった道長は、ついに出家することを決意する。


道長が出家したと聞いてあわてて駆けつけた実資は、道長の姿を一目見て「容顔老僧のごとし」と日記に綴っている。


しかし道長は、このような状態になっても権力への執着を手放したわけではなかった。


彼はこのころ周囲の者に「出家しても毎月5度か6度は天皇にお会いしたい」と語っている。


道長は自邸の隣に法成寺という広大な寺院を建設し、呪詛や怨霊に対抗しようとした。


そして悪霊から逃れようと道長は、法成寺に移り住んでいる。


1021年治安元年、56歳になった道長はそれまで25年間もつけてきた日記を、なぜか急にピタリと止めている。


まだ逝去の6年前である。


道長が最後に綴った日記には、15万遍、17万遍と、その日に唱えた念仏の数だけが記されている。


ほとんど目の見えなくなった道長が、暗いお堂の中で、しきりに念仏を唱えている姿が浮かんくる。


道長はこの頃から、ほとんど神仏にすがって生活するようになっている。


そのためなの、道長自身の病状や精神的な起伏は、しばらくは小康状態を保ったようである。


ところが災いは、道長自身にではなく、彼の家族を次々に襲った。


1025年万寿2年、敦明親王と結婚していた道長の三女・寛子が衰弱死する。


敦明親王は、道長の圧力の前に自ら皇太子の位を辞退していた。


そのため妃の寛子は拒食症となり、最期は父親の道長を呪い、罵って死んでいる。


それからわずか一ヶ月後、まだ19歳の道長の娘・嬉子が死んでしまう。


嬉子は皇太子の敦良親王(のちの後朱雀天皇)と結婚し懐妊していたが、はしかに罹患する。


嬉子は無事に男の子(のちの後冷泉天皇)を出産するが、二日後に帰らぬ人となった。


道長は人の目も憚らず、我が娘・嬉子の亡骸を抱き締めて泣き続けたという。


道長は加持祈祷をしたにも関わらず、嬉子を救えなかった仏教を恨み僧侶たちに八つ当たりをしている。


その二年後の5月には、息子の顕信が急死し、さらに四ヶ月後には皇太后の妍子が35歳の若さで逝去する。


妍子の死去で決定的な打撃をうけた道長は、急激に衰弱して三ヶ月後の11月には危篤に陥った。


道長はほとんど食べられない状態にも関わらず下痢が続き、背中には大きな腫れ物が出来た。


1027年万寿4年11月26日、後一条天皇が道長の病床を訪れた。道長にとっては可愛い孫である。


後一条天皇と道長は、最期の涙の対面を果たしている。


道長は、背中の腫れ物があまりに大きくなったので、針治療を頼んだがあまりの痛さに途中で止めている。


腫れ物は、ガンによるものだと推測される。


親族はやがて意識のなくなった道長の体を、阿弥陀堂へ運んで阿弥陀の手からのばした糸を道長にしっかり握らせた。


道長は皆が読経するなか、12月13日に息を引き取った。


ところが数時間後に道長は、再び動く気配を見せるのである。


藤原道長は14日午前4時、今度は本当に息を引き取った。享年62であった。


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