藤原兼家の時代には、摂関家でもなぜか藤原北家の、しかも九条流だけが栄え、権勢を欲しいままにした。


それは藤原兼家とその父・師輔が、天皇の娘三人を手込めにして「皇女殺し」と呼ばれるなど、悪辣な手法を用いたからである。


兼家とその父・師輔の親子二代の生き方から、なぜ藤原北家の九条流だけが栄えたのかを詳しく見ていこう。


兼家の父・藤原師輔は表面的には実兄の関白・実頼と始終仲良くしたが、陰では兄を憎んだ。


彼は自分の子孫のみの繁栄と、兄の子孫には災いが降りかかることを神仏に祈ったという。


この師輔の方針はそのまま兼家へと引き継がれ、藤原九条流の流儀となった。


摂関家の代々の当主には、うわべは公明、寛大、無欲を装いながら裏では陰湿、狡猾な行動をした人物が多い。


さらに師輔は女性に対しても淫乱で、六人も妻を持った。


しかも師輔が異常だったのは、三人もの内親王、天皇の娘を強引に妻にしたことである。


通常、内親王を娶ることが出来るのは親王と王だけで、臣下ではあり得ないことであった。


藤原摂関家と言えども、師輔以前に、誰一人として内親王を妻にしたものはなかった。


ところが彼は平然として、三度に渡って朝廷の禁制を冒したのである。


師輔は内親王を手込めにするために、まず内親王の乳母らに近付き籠絡するという、悪辣、非道な手段を用いている。


彼は天皇の許可を得るという、正規の方法を用いたのではなく、半ば強制的に婚姻を迫ったのだ。


そのため師輔は、「宇津保物語」に''限りなき色好み''の右大将・藤原兼雅という架空の人物で登場している。


三人の内親王は心労でいずれも早世したため、師輔は「皇女殺し」と陰口をたたかれ人々から蔑まれた。


兄で太政大臣の実頼は、村上天皇の後宮に娘の述子をいれるが、彼女はわずか15歳で没してしまう。


一方の師輔の娘・安子は村上天皇との間に皇子・憲平(のちの冷泉天皇)と数人の皇女を生む。


人が恐れ使わない手段を用いて師輔は、摂関家の中でも九条流のみを繁栄させることに成功する。


彼の子孫が藤原北家の嫡流となり、兄の実頼の子孫である小野宮流は以後後塵を拝することになる。


九条流藤原氏は兼家、道隆、道兼、そして道長と続いていくが、その基礎を作ったのが師輔である。


師輔には伊尹、兼通と兼家の三人の息子がいた。


三人の息子たちは父親の師輔から直接、九条流摂関家の政権を奪取する方法を実地で学んだのである。


960年天徳4年、藤原師輔が52歳で逝去すると、伊尹があとを継ぐ。


関白にまでのぼりつめた伊尹だが、12年後に病没すると、兼通と兼家の兄弟が後釜をめぐって激しく対立する。


兼通と兼家の兄弟は、父・師輔から伝授された悪辣・陰険な手法で争いあった。


代は円融天皇の時代となっていたが、娘を先の冷泉帝に入内させていた弟の兼家が、兼通を官位の上では一歩リードしていた。


そのため兼通は以前から一策をこうじていて、妹で円融天皇の生母・安子に生前中に懇願して一筆を書き残させていた。


兼通は安子亡き後は、一筆を入れた袋をいつもお守りのように、首からつるして持ち歩いた。


そして円融天皇がいざ次の関白を決めようした時、兼通はそっと天皇に亡き母・安子の書いた一筆を見せたのである。


そこには母の筆跡で「関白は次第のままにさせたまえ」と書かれていた。


天皇は今は亡き母の懐かしい筆跡を見て、涙を流した。


そして円融天皇は、母・安子の言いつけ通りに兄の兼通を次の関白とした。


兼通はそれでも飽きたらず、兼家を冷遇した。


兼通が娘の媓子を円融天皇の中宮とすると、兼家も娘の詮子を入内させようとした。


しかし兼通は天皇にはすでに中宮がいるとの理由で、詮子の入内を阻止したことが「大鏡」や「栄華物語」に書かれている。


ちょうど紫式部が生まれた頃だが、兼家は兄の仕打ちで数年の間は官位も上がらず、不運な日々を過ごしていた。


ところが兄の兼通が977年貞元2年の頃から病となり、やがて危篤となった。


すると兼家は兄のところに見舞いに行くどころか、円融天皇に拝謁して自分を次の関白にと願い出ようとした。


これを知った兼通は病身をおして先回りし、次の関白には藤原頼忠をと天皇に推薦している。


結局、兼通の死後には実直な頼忠が関白となったために、兼家は再び鬱屈とした日々を過ごした。


藤原公任の父で温厚で実直な関白・頼忠は、兼家がかわいそうになり、右大臣にさせてやっている。


兼家は兼通の生前中は阻止された詮子の入内を成功させる。


詮子は二年後には、円融天皇との間に懐仁親王(のちの一条天皇)をもうけている。


すると欲望に限りがない兼家は、自分を救ってくれた関白・頼忠の追い落としにかかるのである。


中宮の媓子が病没する。


円融天皇は兼家の権勢が増すのを警戒して、詮子ではなく、入内していた頼忠の娘で公任の姉の遵子を中宮とする。


詮子には天皇の子どもがいたが、遵子にはいなかったのにである。


そこで兼家は詮子母子を自邸の東三条殿に置いて、人質にする作戦を取る。


そして通常は皇子が三歳の時に宮中で行う袴着の儀式を東三条殿で行い、兼家は円融天皇の参加を拒み続けるなどの嫌がらせを繰り返している。


円融天皇は皇子を皇太子することを条件に、花山天皇に譲位する決意をした。


ドラマでは兼家は天皇に毒を盛ったとしているが、譲位を迫ったことだけは確かである。


兼家は父・師輔の色好みの性質とともに、悪辣で陰険な性格を間違いなく、引き継いでいる。


兼家は父親と同じように、十指に余る女性を妻にして、やはり限りなき色好みと言われた。


第65代の花山天皇は冷泉天皇と藤原伊尹の娘との間に生まれたが、入内した藤原斉信の妹・忯子という女御を深く愛した。


忯子は天皇の子どもを身ごもるが、体調を崩して母子ともに死去したため、花山天皇の悲しみはとても深かった。


これに目をつけた兼家は、天皇の蔵人として仕える次男の道兼に策略を授ける。


道兼も出家しますからと、花山天皇を出家させる謀略である。


世間知らずでまだ20歳過ぎの天皇は、騙され宮中を抜け出して出家する。


花山天皇は道兼が逃げたことで、初めて騙されたと気づくが後の祭りである。


兼家の謀略にはまった花山天皇は、わずか二年足らずで上皇となった。


1011年寛和2年、わが娘・詮子の生んだ一条天皇が即位する事で、兼家は九条流藤原氏の独裁体制を固めていく。


こうして藤原摂関家は 、北家の九条流のみが栄えることになる。


師輔と兼家が残したなりふり構わぬ手法を踏襲して、九条流藤原氏は道長の時代に全盛期を迎えることになる。


しかしその礎は、非道で冷血漢の二人、藤原師輔と兼家が築いたのである。


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