藤原道綱の母は「蜻蛉日記」を執筆して、紫式部に「源氏物語」を書く動機を与えた女性だと言われている。


藤原道綱の母のその後を、詳しく見ていこう。


藤原道綱の母は、大河ドラマ「光る君へ」では藤原寧子という名前で登場しているが、本当の名前はわかっていない。


そのために現在でも、藤原道綱の母という名前で呼ばれている。


道綱の母は藤原倫寧を父として、936年承平6年頃に生まれている。


彼女の家柄は藤原氏北家に属し、祖父は歌人として有名な右兵衛督の藤原高経であった。


しかし彼女の父親の代には没落して、受領層となっている。


道綱の母の生母は、嵯峨源氏の源認の娘だと言われるが、異母兄の源理能は清少納言の姉と結婚していたと言われている。


さらに道綱の母の姉は、藤原為雅の妻となり、妹は菅原孝標と結婚して、「更級日記」の作者・菅原孝標の女を生んでいる。


道綱の母は大変な美貌の持ち主で、光明皇后、允恭天皇妃である衣通姫とともに本朝三大美人といわれている。


さらに彼女は、若い頃から和歌にも親しみ、才色兼備の誉れも高かった。


そのため、右大臣・藤原師輔の三男・兼家が、彼女をぜひとも本妻にと強引に望んだ。


二十歳前の彼女は当初は兼家の求婚を断り続けた。


というのも、当時は求婚にはまず男性が女性に和歌をおくって交際を申し込むという慣わしであった。


ところが兼家は父親の権威を借りて、彼女の父親に「結婚したい」とぶしつけに申し込んできたのである。


さらに、兼家にはすでに時姫という妻がいて、長男の道隆という子どもも生まれていた。


兼家の最初の妻・時姫は道綱の母と同じ受領層の出身であったが、身分は下であった。


道綱の母の父・倫寧は兼家の父・師輔とは従兄弟同士であった。


父親に説得された19歳の道綱の母は、気のすすまないまま、26歳の兼家と結婚する道を選ぶのである。


955年天暦9年に、彼女は兼家との間に道綱をもうけるが、それ以降なぜか子どもに恵まれなかった。


一方の時姫は道隆に続いて、道兼、超子、詮子、道長を次々に生んでいる。


そのため地位が逆転して時姫が正妻のような扱いを受けるようになった。

兼家は結婚当初は頻繁に道綱の母のもとに通ったが、時がたつにつれてその数は減っていく。


彼女は持ち前の歌人としての才能を発揮して、内裏の歌合にも参加して、そのうっぷんを晴らした。


道綱の母は知性と美貌にすぐれていたため、女性としてのプライドも人並み以上に高かった。


そのため彼女は兼家への不満を、そのまま正直に具注暦と言われる暦本に書き連ねた。


これが女流日記のさきがけとされ、「源氏物語」はじめ多くの文学作品に影響を与えた「蜻蛉日記」である。


「蜻蛉日記」には次のような彼女と兼家との痴話喧嘩の様子などが、赤裸々に綴られている。


ある時、兼家が彼女のもとに訪ねてきて、帰り際に文を忘れていった。


見てみれば、兼家の新しい恋人からの恋文である。


激怒した道綱の母は、忘れた文をとりに戻った兼家を無視して、決して家には入れなかった。


兼家には多い時には、十指に余る愛人がいたと言われている。


道綱の母は出家や家出をちらつかせて兼家の浮気を封じようとするが、彼の女遊びは止まなかった。


やがて宮中で藤原兼家はライバルを次々に蹴落として、関白・太政大臣にまでのぼりつめていく。


しかし道綱の母は政治状況などには目もくれず、ただ兼家を思うあまりに、その嫉妬で苦しむ日々の心境を隠すことなく日記に書き連ねていく。


そして道綱の母は「蜻蛉日記」を公表する決意を固めるが、それを認めた兼家もさすがである。


通常の男性は、プライベートな痴話喧嘩などを公表することを嫌う。


しかし兼家は「蜻蛉日記」が、どれだけ才色兼備の女性に自分が愛されているかを証明する日記だと考えたのである。


ところで紫式部は小さい頃に、母方の曽祖父・藤原文範に京都の名所へよく遊びに連れていってもらった。


そして道綱の母の姉は藤原為信に嫁いだのだが、為信は文範の子息であった。


つまり、道綱の母の姉は紫式部の大叔母だったのである。


「蜻蛉日記」を読んだ紫式部は大変なカルチャーショックを受けたようだ。


それまでの日記や物語がありきたりなのに対して、「蜻蛉日記」があまりに人間の赤裸々な心情を綴っていたからだ。


紫式部がありのままの現実世界を綴った「源氏物語」を書こうと決意したのは、「蜻蛉日記」を読んだからである。


「蜻蛉日記」は、紫式部の「源氏物語」だけではなく、菅原孝標の女の「更級日記」や、清少納言の「枕草子」にも大きな影響を与えた。


道綱の母の親族に女流作家が多いのは、単なる偶然ではない。


「蜻蛉日記」にはそれを読んだ女性たちに、自分もこんな文章を書いてみたいという強烈なインパクトを与えた。


そして平安中期に、「源氏物語」を頂点に、世界的な文学作品が日本の女流作家によって生み出された。


その先駆けであり起爆剤となったのが、藤原道綱の母が執筆した「蜻蛉日記」だったのである。


「蜻蛉日記」は954年天暦8年から974年天延2年までの20年間の出来事が書かれており、成立は天延2年前後と推定されている。


平安時代の一時期には、貴族社会に限ってだが、女性が自由に自分の心情を吐露し、主張できる環境が世界に先駆けて日本に生まれていたのである。


一人息子の道綱は凡庸であったが、兼家や異母兄弟の道長に可愛がられ、正二位の大納言にまで出世している。


藤原道綱の母は、時姫と兼家を見送ってから、安らかな老後を過ごし、61歳で一生を終えている。


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