清少納言は藤原斉信に思いを寄せられて宮中を賑わしたが、つれない態度を示し続けた。


清少納言と藤原斉信という異色のカップルのその後を、詳しく見ていこう。


清少納言は生没年不詳だが、平安時代の中級貴族・清原元輔の娘として生まれている。


陸奥守・橘則光と16歳の頃に結婚した彼女は、男の子・則長を生んでいる。


そして彼女は、993年頃から一条天皇の中宮・定子の女房として出仕した。


現代社会でも仕事を取るか結婚生活かと、その選択に迷う女性は多い。


結婚生活での彼女は、体育会系の則光とはあまり話題が合わなかったようである。


結局清少納言は、彼と別れて仕事の道を選ぶことになる。


一方の藤原斉信は大政大臣・藤原為光の次男として、963年康保4年に生まれている。


機を見るに敏な斉信は、藤原兼家の長男・道隆が関白になると中関白家に近付き、順調に出世を重ねた。


斉信はさらに道隆に接近するため、娘の中宮・定子のもとに頻繁に出入する。


そして斉信は、定子のもとで女房として活躍する清少納言にひかれるようになっていく。


斉信は何度か清少納言に恋文を送ったが、彼女はつれない態度を示した。


それもそのはずで、清少納言は別れた夫・橘則光とも以前と同様に接する男女関係に開放的な女性であった。


また、清少納言は中宮定子が使い道に困っていた多量の草紙を、枕にするからともらい受ける。


そして彼女はその草紙に、思いつくままに随筆を書いてゆく。


この清少納言が書きためた「枕草子」が、中宮の女性たちの間で大変な評判となる。


清少納言は容姿はいまいちで、しかも当時は女の命といわれた髪の毛もつけ毛でごまかしていた。


しかし「枕草子」のおかげで彼女は、才気煥発な女性だといううわさが広まり、モテ女に変身する。


何しろ当時の女性に必須の教養は、琴を弾くこと、筆美しきこと、和歌に巧みなことであった。


多くの男性貴族たちは、小生意気だが教養があり明るい性格の清少納言に文を送った。


藤原行成や藤原実方も、清少納言に興味を示した貴族たちだと言われている。


そのうちに実方と行成は犬猿の仲となり、宮中の天皇の前で実方が行成に殴りかかった。


そのために実方は陸奥へ左遷となり、その地で没する結果となっている。


考えた挙げ句に斉信は清少納言の気を引こうと、白楽天の一説を引用した次のような文を送った。


「君たちは都で花咲き、錦のとばりのもとで得意にしているが・・」という謎めいた一節だけを清少納言送り、斉信はすぐに返事が欲しいと伝えた。


この白楽天の詩は「僕は雨ふる夜に、草庵でさびしく暮らしている。」と続くのである。


もちろん清少納言はこの漢詩をよく知っていたが、そのまま書いて返すのは能がないと考えた。


そこ斉信の友達で和歌の名手・藤原公任の和歌の一節「草のいほりをたれかたづねん」と書いて、彼女は斉信に返した。


この機知に富んだ清少納言の応答に、斉信はじめ宮中の男たちは感嘆して彼女の評判はさらに高まった。


翌日からは多くの貴族たちが「草いほりさんはどこだ」と訪ねてきたという。


そのため藤原斉信の清少納言への思いは、憧れだけで終わってしまった。


この評判に前夫の橘則光も彼女のもとに駆けつけ、喝采するという一幕もあったのだという。


しかし、995年長徳元年の4月に関白・藤原道隆が死去すると、中宮の和やかな状況が一変する。


藤原道長と道隆の子・伊周の熾烈な権力争いが表面化する。


すると好機を逃がさない斉信は、中関白家から距離を置いて藤原道長に接近した。


伊周とその弟・隆家は誤って花山上皇に矢を射かけたため、左遷となる。


後ろ楯を失った中宮定子に変わって、道長の娘・彰子が一条天皇に取り立てられる。


中宮を去った清少納言に代わり、彰子の女房として紫式部が入ることになる。


そのため本当は、清少納言と紫式部は一度も宮中では顔を合わせていない。


ところで清少納言は枕草子において僧侶の条件として、顔のよきこと、声美しきことをあげている。


後宮の女性たちは盛んに法会に参会したが、目的は仏教の縁にすがるというものではなかった。


法会は、顔と声が美しき僧侶が、金色まばゆい須弥壇の周りで、奏楽を奏でるのを眺めるものであった。


現代的に言えば、高貴な女性たちが歌舞伎や演劇を観賞するのと同じである。


平安貴族たちは、いやしくも感覚的に美しくないもの、雅でないもは排除した。


そして恋愛をするにも、洗練された一種の芸術的態度が必要とされたのである。


そのために清少納言や和泉式部のように、多くの男性と浮き名を流す恋多き女性がもてはやされた。


紫式部は清少納言とは対照的に、控え目で、どちらかと言えば暗い性格の女性であった。


紫式部は日記に清少納言についての批判を、半ば憧れもあったのか記述しているが、少し長いが現代文を見てみよう。


「清少納言は、いつも得意げな顔して、文章のなかに漢字を使いまくっている。」


「けれど書かれたものをよく読むと、漢文の知識はまだまだ未熟だ。」


「あんなふうに、私は人とは違うんですよ、と思い込んでいる人は、絶対に周りと比べて見劣りするようになるはずだ。」


「一時期の調子はよくてもその先は続かない。」


「感性を売りにする人って、ぶっちゃけ普通のことにも素敵!、感動!、最高!って騒ぐから、結局中身のない人間になるだろう。」


「それからその先はどうするの、ってはたから見てると心配になる。」


以上のように紫式部は清少納言を批判している。


紫式部は清少納言がなぜ「枕草子」のような作品を書けるのか、理解出来なかったのかも知れない。


清少納言の「枕草子」が感覚的・情緒的で、紫式部の「源氏物語」が哲学的・論理的だと言われる所以だ。


紫式部は清少納言が持つ天性の才能に嫉妬して、彼女を批判したに違いない。


藤原斉信は一条天皇のもとで活躍し、源俊賢、藤原公任、藤原行成らの三人の公卿とともに四納言と称された。


藤原斉信は道長の右腕としても活躍し、太政大臣まで出世して69歳で逝去した。


清少納言は、後に没落して老醜をさらしたという逸話を残しているが、本当のことはいまだに不明である。


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