紫式部は平安時代に「源氏物語」を著し、1965年にユネスコの「世界の偉人」に日本人で唯一選ばれた女性である。


なぜ千年以上も前に、彼女は世界文学の最高峰ともいえる「源氏物語」を書けたのだろうか。


彼女の育った環境と家系を詳細に調べて見ると、その秘密が明らかとなってくる。


紫式部が「源氏物語」を書けた秘密を詳しく見ていこう。


紫式部は973年天延元年頃、父・藤原為時と母・藤原為信の女の長女として生まれた。


ドラマなどでは為時は長く官職がない中級貴族で、家は貧しかったという設定となっている。


しかし、前回の動画「紫式部の給料は?」でも判明したように、平安時代は中級貴族でも庶民の100倍以上の収入があるなど、とても豊かであった。


さらに、紫式部の家系をさかのぼってみれば、ビックリである。


彼女の家柄は、もともとは公卿にのぼる家系で、父方の曾祖父である藤原定方は従二位で右大臣であった。


同じく曾祖父の堤中納言・藤原兼輔は従三位で権中納言となっている。

また母方の曾祖父・藤原文範も従二位で中納言であった。


さらに、曾祖父の定方は和歌に秀でて「古今和歌集」や「小倉百人一首」にも歌が選ばれている。


もう一人の曾祖父・兼輔に至っては三十六歌仙にも選ばれるほどの歌人であった。


祖父や父の代になって受領階級になっていたが、父親の為時も出世には恵まれなかったが優れた詩人であり歌人である。


また紫式部よりは少し劣ったといわれる弟の惟規でさえ、「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に和歌10首が採録される歌人であった。


紫式部が幼少期に育ったのは、平安京の東に接した曾祖父・堤中納言の大きな邸宅であった。


現在邸宅跡は、京都市上京区の紫色の桔梗の寺として有名な廬山寺の境内となっている。


鴨川の近くの自然あふれる恵まれた環境で、紫式部は幼少期を過ごし、家には「土佐日記」を書いた紀貫之なども訪れたという。


紫式部はこの邸宅で子供を産み、育て、また「源氏物語」を執筆した。


これは平安時代当時の、紫式部の邸宅の位置を示した地図である。



紫式部の邸宅は道を挟んで、土御門殿とは斜め向かいであることに注目していただきたい。


土御門殿は、藤原道長と結婚した源倫子の実家である。


当時は妻問婚で、道長は倫子と結婚するとこの豪華な寝殿造りの大邸宅に住んだ。


この付近は上級貴族も住む、高級住宅街だった。


紫式部は道長の土御門殿と、変わらぬほどの大豪邸に住んでいたのである。


また紫式部は、倫子とはご近所同士でしかも再従兄妹同士であり、道長とも姻戚関係にあった。


彼女が道長や倫子と親しくなるのも当然であった。


やがて道長と倫子の長女・彰子は一条天皇との間に、二皇子(のちの後一条天皇と後朱雀天皇)を生む。


一条天皇が彰子のもとに通うようになったのは、紫式部が女房になって「源氏物語」を書いたからだと言われている。


文学好きの一条天皇は、最初は「源氏物語」を読みたいために彰子の部屋へ通ったのである。


紫式部の育った大邸宅には、「源氏物語」を書くために参考にした漢文などの書物が山のようにあったという。


紫式部が「源氏物語」を書けた素養は、すでに彼女の少女期には築き上げられていたのである。


紫式部は少女期に、曾祖父などに連れられて、「源氏物語」の舞台となる宇治や須磨を訪れている。


そして宮中に上がるはるか以前からすでに、「源氏物語」の構想を練り、書きためていたのだ。


紫式部が「源氏物語」を書いた理由は、夫・宣孝の死の悲しみをまぎらわすためだとか、道長に頼まれたからだという説がある。


しかしそれらはあくまでも、彼女の幼少期から温められてきた才能が溢れ出るきっかけになったに過ぎない。


「源氏物語」は全部で54帳もある壮大な物語だが、「桐壺」から「須磨」までの12帳は宮中に上がるまでにすでに書きためられていた。


そして姻戚関係にあった藤原道長と倫子が、紫式部に彰子の女房になるよう依頼して、当時は貴重であった多量の紙と筆などを用意した。


「源氏物語」は紫式部の才能と、彼女の恵まれた環境がピタリと一致した結果、奇跡的に完成する。


以上が、紫式部が「源氏物語」を書けた秘密である。


紫式部は一心不乱に「源氏物語」を書き上げ完成させたが、そのため宮中には、あまり顔を出さなかった期間もあったという。


ところで苦労して書き上げた作品だが、残念なことに紫式部直筆の「源氏物語」は現在、全く残っていない。


われわれが今目にしているのはすべて写本で、書き写される段階で誤字や脱字が発生したという。


そのため文体などが変化して、女性の紫式部以外にも、男性の作者がいたなどの学説も唱えられた。


しかし彼女以外の別の作家が書き変えた玉石混淆の作品が、一千年以上に渡って読み継がれるであろうか。


細かな点は書き加えられていたとしても、大綱においては紫式部の構想はそのまま生きている。


だからこそ「源氏物語」は現在も、全世界で読み継がれているのである。


それが証拠に、ヨーロッパでは女性作家が現れるのは19世紀になってからである。


いかに紫式部が先見性に優れた女性であったかが、わかる事例だ。


紫式部の歩んだ道をたどれば、彼女以外に「源氏物語」を書き得なかったことがわかるのである。


【紫式部が源氏物語を書けた秘密】