紫式部を現代的に言えば、世界的ベストセラー「源氏物語」を書いたノーベル賞級作家といったところである。


はたして彼女の収入は、一体いくらあったのだろうか?


紫式部の給料を詳しく見ていこう。


紫式部の父・藤原為時は中級貴族であったが、紫式部も幼年時代はもちろん父親の世話になった。


成人して宮中に上がるまで、紫式部はニート生活を続けたようだ。


為時は長い間、官職がなく、彼女の家庭は幼い頃は貧しいかったと言われているが、はたして本当だろうか。


平安時代の中級貴族は季禄、位禄、位田という三種類の給料を朝廷からもらっていた。


季禄は絁(粗悪な絹織物)や綿、布(麻織物)や鉄鍬などで支払われた。


そして位禄はお米で、位田は農地というかたちで支給された。


為時は従五位下の期間が長かったようなので、当時の従五位下の貴族の給料を見てみよう。


従五位下の季禄は絁8疋、綿8屯、布24端、鍬40口で、これらを米に換算すると37石である。


次に従五位下の位禄は、平安中期には215石の米が支給されていた。


そして従五位下の位田は8町の農地が与えられたが、152石の米になったと考えられる。


つまり紫式部の父・藤原為時の年収は合計404石以上あったことになる。


これは当時の都の一般庶民の平均年収が3.6石なので、100倍以上となる。


平安時代は、中級貴族であっても庶民の年収の100倍以上という、極端な格差社会だったのである。


平安中期の単純労働者である庶民は、1日に平均して米1升を受け取っていたので年間で約3.6石となる。


これを現代の日雇い労働者に置き換えれば、一般の土木作業員の日当は約1万円である。


この作業員が年間に360万円稼ぐと仮定すれば、その百倍は3億6千万円である。


つまり、貧しいと言われている中級貴族の藤原為時だが、最終的な年収は約3億6千万円以上もあったのである。


「平安貴族は何人いたのか」の動画でも述べたが、平安貴族は約5千人だったと言われている。


一方当時の日本の人口は約700万人なので、貴族は1400人に1人の割合で、人口のわずか0.007%だった。


さらに中級貴族の年収が3億6千万円だったのだから、上級貴族の藤原道長などはもっとすごかった。


従一位は従五位の約百倍の収入といわれるので、道長の年収はざっと360億円ということになる。


藤原道長の年収は、当時の一般庶民の一万倍であったことになる。


年俸が101億円の、大リーグの大谷選手もビックリである。


藤原為時は官職のない時代も長かったようだが、その時でも年収は1千5百万円をくだらなかったという。


成人するまでの紫式部は収入がなくても、為時の世話になりながらじっくりと学問に励めたはずである。


さらに紫式部が結婚した藤原宣孝の位階は正五位下と、為時と同じであった。


紫式部は結婚して娘をもうけるが、宣孝に数年で先立たれている。

しかし当時は女性も財産権が認められていたため、親や夫の家や土地を引き継いで所有していたのである。


そのために、紫式部や清少納言が年老いてから没落して惨めだったという逸話が存在するが、そのまま信じることは出来ない。


後世の何者かがやっかみで、そんな逸話を残したのであろう。


紫式部や清少納言は受領の娘であったが、父親や夫が死んでもすぐに没落する心配はなかったのである。


また結婚すれば夫の財産を引き継ぎ、男の子が生まれて成人すれば、その世話になることも出来た。


紫式部には男子がいなかったが娘の賢子が後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙され「大弐三位」と称される最高位の女房となっている。


また清少納言の娘・小馬命婦も彰子の女房となっている。


それでは、紫式部が宮中の女房として仕えるようになってからの給料は、いくらだったのだろうか。


当時の律令国家の女官たちは、季禄や位禄があったが、男性の半額であった。


天皇を産んだ国母の中宮彰子に仕えた紫式部の位階は、五位以上と目されていたので、単純に年収は1億円近くあったということになる。


これは一般的な女房の年収なので、「源氏物語」を書いた紫式部ならさらに歩合給をもらったはずである。


女房たちには着物や絹織物、綿や布が年二回ほど支給されたという記録が残っている。


いわゆるボーナスである。

中宮彰子は紫式部が「源氏物語」を書いたことで、一条天皇を引き付けた。


そして彰子は二人の皇子(のちの後一条天皇と後朱雀天皇)を生み、道長は外祖父となり、摂関政治の基盤を固めた。


藤原道長と紫式部が愛人同士であったかどうかは別にして、道長にとっては「紫式部様々」なのである。


まさに年収360億円男の道長が、臨時ボーナスを弾まない訳がない。


また女房たちは、天皇からは御下賜品が、皇后からは饗禄の支給があった。


現代の、天皇からの御下賜品は和菓子などが多いが、当時は金銀の装飾品など貴重な品が多かった。


また皇后からの饗禄とは文字通り、客人を接待・饗応することによって得る禄である。


紫式部も客人の前で美しい舞を披露して、饗禄を得ていたのかも知れない。


平安時代に出版の印税制度などはなかったが、紫式部は臨時手当てをタンマリともらったに違いない。


やはり世界的な文学作品を執筆するには、莫大な費用と時間が必要なのである。


日本の文科省の役人たちは、この事を肝に命じるべきである。


ちなみに紫式部が書いた「源氏物語」に、1000年間の印税が発生したとすれば約8千億円になるという。


「光る君へ」で紫式部が高価な十二単を着て華麗に舞う姿を見て、やはり憧れるが、庶民には縁遠い物語だと改めて実感する。


【紫式部の給料は?】ユーチューブ動画