円融天皇は藤原道長の父・兼家に毒を盛られ、体調を崩して花山天皇に譲位したとも言われている。


本当に円融天皇は藤原兼家に毒を盛られたために引退を決意したのだろうか、詳しく見ていこう。


日本の古代では体調を崩したり、病気になるのは、鬼、鬼神によってであると考えられていた。


平安時代になると病気は「もののけ」によって、引き起こされると信じられるようになっている。


まさに「鬼滅の刃」や「もののけ姫」の世界が、人びとの間に広がっていたのである。


円融天皇の兄の第63代冷泉天皇は、幼少の頃から異常な行動を繰り返したという。


5、6歳の頃に冷泉天皇は、父親への手紙に男性性器を描いたりした。


青年期になると「もののけ」に取りつかれ、同じ行動をいつまでも続け、成人になるまで言葉を発しなかった。


ある日、成人した冷泉天皇は空を飛ぶ白鳥を見て、初めて声を発したという。


現代医学の立場から見ると冷泉天皇は、アスペルガー症候群である自閉症スペクトラムだといわれている。


高僧や陰陽師が加持祈祷を行ったが、冷泉天皇の奇行はおさまらなかった。


そのために20歳の冷泉天皇は、即位してわずか2年で弟の円融天皇に譲位して上皇となった。


譲位した冷泉上皇はストレスから解放されたのか、その後42年間も長生きして62歳で崩じている。


冷泉上皇の狂気説は、天皇を譲位させるために藤原氏によって創作されたとする説が有力である。


それはともかく、969年安和2年に11歳の円融天皇が即位する。


ところが981年天元4年、円融天皇は突然に体調不良を訴え病臥する事態となった。


そのために人びとは兄の冷泉天皇と同じく、円融天皇も「もののけ」に取りつかれたとうわさした。


ちょうどこの頃、藤原兼通と兼家の兄弟は、熾烈な権力争いを繰り広げていた。


兄の兼通は娘・媓子を入内させたが、円融天皇は彼女を寵愛した。


そして関白となった兼通は病となると、弟の兼家を差しおいて藤原頼忠を後任にすえた。


兼通にならって頼忠は娘・遵子を円融天皇のもとに入内させていた。


このままでは関白になれないと考えた兼家は焦ったに違いない。


兼家は兄の兼通が亡くなると、娘の詮子を無理矢理後宮に入れる。


当時は兼家の娘・詮子のように、親の言われるままに娘たちが嫁ぐのが常識であった。


やがて詮子は皇子(のちの一条天皇)をもうける。


しかし兼家が権勢を伸ばすことを嫌った円融天皇は、関白・頼忠の娘・遵子を皇后にすえ、詮子を冷遇した。


そんな時期に円融天皇が体調を崩したために、兼家が毒を盛ったという噂が広がったに違いない。


即位から10年がたち23歳となった円融天皇は、2月20日の行幸を終えると突然、体調不良におちいった。


現代でも人びとはなにかと神社仏閣に詣でるが、医学の発達していなかった平安時代の人々は、神仏にすがるしかなかった。


安倍晴明などの陰陽師が護摩をたき、円融天皇の病気調伏を祈ったが、効果がなかった。


さらに夏になると、天皇はおこり病の発作に襲われる。


天皇は3日に一度、高熱を発して体をガタガタと震わせた。


この症状を現代医学で診断すると、病名は「マラリア三日熱」であると考えられる。


マラリア三日熱の病原虫は、ハマダラ蚊によって運ばれる。


当時の京都の湿地帯にはハマダラ蚊が多く生息していたために、おこり病が蔓延していた。


マラリア病原虫が体内に侵入すると、48時間ごとに血中にでて、発熱とふるえをおこす。


各地の高僧が呼び出されて、祈祷をおこなったがまったく効果はなかった。


そのため天台宗の高僧で70歳の高齢の良源がめしだされた。


良源は弟子に支えられながら参内して、祈祷を行った。


すると円融天皇は、三日たってもおこり病を起こさなかった。


円融天皇が回復に向かったため、良源は大僧正の位と法衣や砂金百両を与えられたという。


しかし病で弱気になった円融天皇は花山天皇に位を譲って上皇となった。


この花山天皇も、藤原氏によって「淫乱天皇」というレッテルを貼られ、わずか二年ほどで譲位している。


当時は藤原氏の専横に、天皇たちは振り回されたのである。


以上のような経過から、円融天皇の病気はマラリア三日熱と考えられる。


そしてその病は治った天皇だが、藤原氏の横暴で精神不安になった。


そのため円融天皇は譲位に追い込まれたとういうのが、真相のようである。


藤原兼家は円融天皇に「毒」は盛らなかったかも知れない。


がしかし、天皇や詮子にとって「毒親」であったことだけは、間違いないであろう。


【円融天皇は本当に毒を盛られたのか】ユーチューブ動画