紫式部が幼少の頃に、父親で優秀な学者だが中級貴族であった藤原為時はなかなか官職につけず、家は貧しかった。


しかし平安時代に貴族がどれくらいいて、紫式部はどれほど貧しかったのかが、現代人の我々には想像しにくい。


そこで具体的に紫式部が生きた時代を知るために、平安貴族が何人いて、その割合はどれくらいかを数字で見ていこう。


朝廷の位階には上は一位、二位から、下は七位、八位、大初位、少初位までがあった。


しかし律令の規定によれば、平安時代に貴族として扱われたのは五位以上の人々であった。


そして平安中期になると、朝廷は正六位下以下の位階を与えることはほとんどなくなった。


これにより、七位や八位、初位といった位階を持っていた「官人」と呼ばれていた貴族でも庶民でもない階層が消滅する。


そのため正六位上という位階はそれまでは貴族と見なされていなかったが、以後下級貴族と見なされるようになった。


平安中期以降の人々は、正六位上以上の貴族と、位階を持たない庶民に二分される。


つまり平安時代には貴族と庶民という二つの階級に、日本人は大きく二分されてしまうのである。


そして下級だが貴族の仲間入りを果たした正六位上の人々が、徐々に台頭してくるのだ。


この正六位上の下級貴族たちの職業は、主に上級貴族の側近として仕えることであった。


「雑色」と呼ばれた庶民の使用人とは違い、上級貴族の身近に侍って、雑用や警護のような仕事をした。


そして身近に「侍ふ」ことが多かったことから、この下級貴族たちは「侍」と呼ばれるようになった。


平安中期の「侍」はまだすべてが武士ではなかったが、のちに平清盛や源頼朝の先祖がこの中から登場する。


つまり武士は、平安時代の下級貴族から発生したのである。


ところで、「侍」の上の階層である四位と五位の位階を持つ男性は、「大夫」と呼ばれた。


平安時代中期には「だゆう」ではなく「たいふ」と呼ばれていた。


平安中期に「大夫」とは、中級貴族の男性を意味する言葉だったのである。


ところが平安末期になると、森鴎外の「山椒大夫」で知られるように、地方で羽振りのよい人間を大夫と呼ぶようになっている。

この時代に貴族は、正六位上の下級貴族と、「大夫」と呼ばれた中級貴族、そして一位から三位までの上級貴族の三種類に分かれていた。


上級貴族は「公卿」や「上達部」と呼ばれていたが、この上級貴族の男性は約30人だったという記録が残っている。


おおよそ大臣は2名、大納言4名、中納言が7名、参議は8名、そして非参議が5名だという記録が毎年残されている。


これらの合計の平均を出せば、上級貴族は27名ということになる。


参議はまれに四位の者も選出されることがあったので、上級貴族は約30名であった。


では紫式部の父・藤原為時が属した中級貴族は、一体何人いたのだろうか。


これも藤原氏の氏寺である奈良・興福寺の記録に、そのヒントが残されている。


全焼した興福寺を再建するために、1046年永承元年、関白・藤原頼通は全国の藤原氏に布施を募った。


この時に四位、五位の位階を有する藤原氏の男子は366名だったと「造興福寺記」に記されている。


藤原氏は当時の宮廷で、四割強の勢力を持っていたことが別の資料で判明している。


つまり全国には約900名の大夫、四位、五位の位階を持つ中級貴族の人々がいたことになるのである。


ちなみに紫式部の父・藤原為時は、藤原氏の一員だが、受領国司になるためにはとても苦労した。

受領国司のポストは全部で66であったから、900人で争えば競争率は13.6倍と超難関であった。


紫式部やその家族が、なかなか裕福になれなかったのも納得できる数字である。


また別の計算から、下級貴族は約4千人いたこともわかっている。


つまり平安時代の上級貴族は30人、中級貴族は900人、そして下級貴族は4千人で、合計すると4,930人となる。


平安貴族は、約5千人だった。


当時は位階を持つのはほとんどが男性であった。


つまりこの約5千人というのは、ほとんどが成人男性である。


そのため妻や子供の家族を含めた貴族階級というのは、四倍の約二万人だったと推察される。


日本の平安時代の人口は、約600万人だということがわかっている。


つまり貴族階級は家族も含めて、平安時代の日本の人口のわずか0.3%だった。


平安時代のほとんどの日本人は、庶民であり、貴族による搾取、疫病や飢餓に日々苦しめられていた。


紫式部も苦労したであろうが、庶民の比ではなかったのである。


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