安倍晴明は紫式部や藤原道長が生きた同じ平安時代中期に、陰陽師として活躍し天皇にも重用された。
安倍晴明の生涯を詳しく見てみよう。
安倍晴明は921年延喜21年、安倍益材の子として生まれた。
科学が発達していない平安時代では、中国から伝わった天文道や陰陽道が最新の学問であった。
晴明は賀茂忠行について天文道や陰陽道を学んだが、ある夜、忠行に随行して外出した。
師匠の忠行は車の中で眠ってしまったが、晴明には前方から鬼がこちらに向かってくるのが見えたという。
あわてて晴明は忠行を起こしたので二人は事なきを得た。
陰陽師として大成するには、鬼が見えるという才能が欠かせなかった。
晴明は何万人に一人といわれる陰陽師としての才能を、若くして持っていたのである。
それ以後、忠行は自分が知るあらゆる術を器から器へ移しかえるように、晴明に伝授したという。
晴明は天文博士などを歴任し、その優れた技量と名声は多くの人々に知れ渡った。
さらに晴明は花山天皇の頭痛を治したことで、天皇にも重用されるようになった。
晴明は那智の千日修行を行った行者であった。
花山天皇は頭痛持ちで、特に雨の日には激しく痛み、あらゆる医療も効果がなかった。
晴明は「花山天皇は前世は大峰の行者で、そこで他界したが、その谷底にある髑髏が、雨で岩が膨らむと頭痛がするのだ」と見立てた。
天皇が人を遣わしてその髑髏を取り出したところ、頭痛はピタリとやんだという。
それ以後、花山天皇の信任を得た晴明は朝廷で重く用いられるようになっている。
科学がまだ未発達の平安時代の人々は、非常に信心深く縁起や鬼の存在を信じていた。
当時の人々が最も恐れ忌み嫌ったのが死であった。
天然痘や麻疹などの流行によってパタパタと死んでいく姿を見て、人々は恐れた。
そして一見昼間は雅やかな平安京も、夜ともなれば疫病神や妖怪が百鬼夜行すると考えた。
また地震などの天災はもとより、疫病などの流行もすべて百鬼などが引き越すと人々と思った。
そして仏教の影響で、悪行を行えば死んでから鬼のいる地獄に落ちると人々は信じていた。
当時の京都では北西にある大江山に酒呑童子という山の鬼が住み、山の聖霊を害して疫病をもたらすと考えられていた。
一条天皇の御代に、若い貴族の姫達がさらわれる事件が起きた。
犯人が何者なのかを安倍晴明が占って酒呑童子だと判明したため、源頼光によって退治されている。
晴明の名声は一挙に高まり、史上最強の陰陽師と都じゅうでもてはやされた。
晴明は天皇や貴族たちにも重用され、厄払いや呪詛を行った。
その頃、摂政・関白の地位を伺っていた藤原道長は、人一倍に陰陽道に興味を示していた。
道長は晴明を自らの出世の道具として、重く用いた。
道長はし烈な出世争いを演じたために、人々から嫉妬され呪詛されることも多かった。
そのため道長は物忌みを盛んに行った。
物忌みとは、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえれば、穢れや呪詛から逃れられるとされていた。
多いときに道長は、一年間に数十日も仕事をせずに、人とも会わずに家に籠った。
関白で道長の長兄・道隆は自分の子供・伊周を次の関白にしたいと考えていた。
ところが道隆は突然病に襲われ死去する。
さらに後を継いだ次兄の道兼も、関白就任後わずか数日で兄の後を追うように死去するのである。
伊周の母方の祖父・高階忠成は伊周の関白就任を願って、道長を呪詛し続けた。
そのため道長は呪詛から自分を守るように晴明に頼んでいる。
当時は呪詛など人を呪う行為は、殺人と同等とされていた。
晴明の告発により、呪詛を行ったとして伊周は流罪となっている。
陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫、穀倉院別当、などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。
さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられている。
安倍晴明は1005年寛弘2年、85歳で逝去する。
安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。
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