いよいよ2024NHK大河ドラマ「光る君へ」が始まる。


このドラマは紫式部の生涯を描いている。


世界文学として高い評価を受ける「源氏物語」の作者紫式部は平安時代中期に公家の娘として生まれた。


しかし平安時代と言えば十二単を着た女性が思い浮かんで、紫式部たちがどのような生活をしていたかが全く想像出来ない。


そこでまず「食事編」として、紫式部は何を食べていたのかを詳しく見ていくことにしよう。


当時の主食は玄米だが、主としてもち米で、貴族は半つき米を、庶民は完全な玄米を食べていた。


平安時代の食事は基本的に、朝夕の一日二回であった。


ただし朝食前に軽食を取ることもあった。


軽食は粥で、粥には固粥と汁粥があった。


固粥は現在我々が食べているご飯のようなもので、汁粥が今の粥のようであった。


主食は強飯で、お米を蒸したものであった。


これは今のおこわのようなもので、椀や土器などに盛って食べたようである。


しかし強飯は時間がたつと、冷えてパラパラとなる。


紫式部たちは固くなってパラパラになった強飯を、スプーンのようなもので食べていた。


強飯に対して釜で柔らかく炊いたものを姫飯と呼び、歯のない老人や子どもたちが食べていた。


またお米は旅先などでは、携帯用に干した乾飯を食べた。


平安の人々は、屯食という乾飯を水で柔らかくして卵形に握ったおにぎりを持ち歩いた。


餅はやはり目出たい時に、丸にしたり長方形ののし餅を切って食べている。


また二本の箸は「唐箸」といってあまり用いられなかった。


日本古来の箸は一本で、竹を二つに折り曲げ、ピンセットのようにしてはさんで使用した。


漬物はこの平安時代から食されるようになった。


平安時代に人々は食料を保存するバリエーションを増やし、様々な味覚を楽しむようになった。


醤や塩、酢などであえた「あえもの」も食べるようになっている。


調味料には醤、酢、酒、塩の四種類があり、醤は味噌と醤油の原型となるものであった。


各人が自分の好みによって、料理にかけて味わっていた。


この頃にはまだ砂糖がなかったため、柿を干して粉にしたものを甘味料として使用している。


酒は冷やで、庶民にも広く売られ飲まれていたが、悪徳商人が水で薄めて売っていた。

紫式部は半つきの米の強飯を食べていた。


そして酒と魚の煮物や鰯、あわびに香の物などを食べていたと考えられる。


鰯は昔から庶民の食べる安価な魚で、平安朝の貴族が口にするのは卑しいとされていた。


ところが紫式部は大の鰯好きで、夫の宣孝に見つからないようにこっそりと隠れて食べていた。


それをある日、宣孝に知られて咎められた際に、紫式部は次の歌を読んで猛然と反論している。


『日の本に はやらせ給ふ 岩清水 まゐらぬ人は あらじとぞおもふ』


「日本ではやっている《いわし》水八幡宮に参らない人がいないように、こんなにおいしいイワシを食べない人などいませんよ」と。


石清水八幡宮と鰯をかけて、即興で返したのだ。


実は鰯が好きだったのは、紫式部ではなく和泉式部だったとする説もある。


それはともかく、紫式部が以上のような歌を詠んで切り返し、宣孝を黙らせしまったとすればさすがに才女である。


鰯は「鰯売り」がいて、京の町で売り歩いていた。


また、目刺しもすでに庶民が食べていたという。


そして川魚では鮎が好まれた。


また京には鯖街道があったように、天皇や貴族たちは鯖の塩焼きをよく食べたという。

鳥肉も食べられていたが貴重で、天皇や貴族が饗宴の時に鳥のもも肉を食べたという記録が残っている。


鳥のもも肉は別足といわれ、帰りのお土産などにも使われている。


庶民は慢性的に栄養失調ぎみであった。


それに対して貴族は太りぎみで、栄養過多であった。


藤原道長は晩年、糖尿病で苦しめられた。


道長は喉が渇き、水をよく飲んだため飲水病と言われた。


権力を握った藤原氏が、衰えた原因の一つに、糖尿病を患う者が多かったからとも言われている。


我々が想像する以上に、平安時代の貴族たちは、ぜいたくな食事をしていたようである。


【紫式部は何を食べていたのか?】ユーチューブ動画